OCM一級建築士事務所
 

2006年1月


  2006年1月30日(月)   散髪
天気がいい、気持ちいい、午、散髪する

この美容室、もう13-4年通っている。
13-4年、必ず毎月一回……
すごい回数になる

案外、ワタクシめはサスティナブルな人間である
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  2006年1月29日(日)   ベルボトム
新高輪プリンスホテル
高層建物と大地との接際(なんて読むのかわからない、辞書にはないコトバだが、ムラノ本には出てくる)

このベルボトムな感じ、建築心が萌す(きざす)

他の村野建築にも多くみられる、アイデアというよりコンセプトにちかいシロモノ
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  2006年1月28日(土)   「建築ツウ的漫歩学会」結成
【漫歩】どこへ行くというはっきりしたあてもなく、気楽に気に入った所を歩き回ること。

隅田川流域に興味を奪われながらも、やはりこのあたりは良い。
恵比寿3丁目あたり、伊達坂という旧名を偲びながら
途中で目黒区でなく急に品川区になり、上大崎2丁目、昔長者丸と呼ばれていた地域
マンションやアパートの名前にその面影を残す
目黒駅の裏、白金から一気に転げ落ちる
もう一度起き上がるあたりは、池田山というところ
そこからまた転げ落ち、つぎは島津山に登る
頂部は女子大になっているので、拝めないが、そのまま尾根つながりで品川プリンスの村野藤吾にあいさつ
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  2006年1月28日(土)   旧地名
ロビーを何食わぬ顔で抜け、和風庭園を徘徊
洞坂など、渋い坂を登り、尾根つたいに北東へ
この道、昔から好きだ。
遺跡もあるし、寺もあるし、宮家もいるし、なんとも素敵な場所
寒風吹きすさび、日も暮れかけたので、聖坂をころがり落ち、昔海岸だったあたり、札の辻あたりへ

案内板の「キリシタン遺跡」というのに興味をもったが、みつからず
冷えたカラダに熱燗を流し込むため、田町駅前の商店街へ
「学会」っぽく建築会館、地下の居酒屋で、本日の漫歩学会終了
なぜか「熱燗一杯」サービスしてもらう

伊達坂、長者丸、池田山(写真)、島津山……
「建築ツウ的漫歩学会」は、わりと旧地名をたよりにして歩く傾向あり
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  2006年1月27日(金)   
バンタンデザイン研究所、今年度最後の授業。

写真は、学生の作品。
人体解剖図のような模型。
表皮や化粧だけでなく、皮(化けの皮)を剥ぎ取った後の、骨格でも美を表現しようとしている。

学生に求めたこと。
1) 構想とそれに説得力を増すためのリアリティーを与えること
2) 具体的にはそれは、構造表現を伴わせるなど
3) 作品に費やす絶対的な時間数を表現すること
4) 時間の蓄積、思考の密度が人を感動させる
5) “自然”だとか“環境”だとか“地球にやさしい”だとか、まやかしで免罪付的なコトバたちを自身のコンセプトから一切排除し、ネイキッドな自身の姿を露呈すること

などなど
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  2006年1月26日(木)   蛎殻の町
日本橋蛎殻(かきがら)町、というところの物件を見に行った。
自己のプロジェクトを発生させんがため。
永年、歩きつづけた結果、最近、この辺に興味を持っている。

歩いてすぐに、隅田川。
相当の想像力を持ってすれば、少しは江戸を感じられる場所だ。

物件を見た後、その、江戸の距離感を感じるため、戎まで歩いた。

茅場町、兜町、日本橋、八重洲、新橋、内幸町、芝、三田、赤羽橋、一の橋、麻布十番、古川橋、四の橋、白金、天現寺、そして夷。

恵比寿、恵美須、恵比須、戎、夷、ebisu……
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  2006年1月25日(水)   独居房
バンタンデザイン研究所インテリア学部住空間建築専攻卒業設計、佳境の図。

模型、手描きのペン画、CG、3D……など様々な成果品ができつつある。
楽しみだ。

20才の若者達の、思考と成果物。
そこには“全て”がある。

余興で、ヒューザーや、ホリエモン事件のことを、軽く解説してあげる。
「実体があるはずなにない虚業」
「集団幻想としての経済膨張(一日で8000億が1800億)」
「虚業家と実業家」

バブルの頃、みなが踊らされたキーワードが、早めに当局によって芽をつまれているにすぎない。

虚業家になるか、実業家になるか、選ぶのは君たちだ、と伝える。

独居房、3畳、極小空間、茶室……興味あるな……
まあ、今独居房の方が人気らしいので……
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  2006年1月24日(火)   コトバ狩り
拙著新作、第4弾『建築ツウに訊け!』は、二月の中旬に発売の予定です。

 今、その最後、校正された原稿を読み返している。
つくづく校正の人というのはすごい国語能力をもっているのだな、と感心する。ニッポン人としては当然だが、英語ができる人よりも尊敬できる。日頃、例えばこの日記のようなものにしても、いかにいいかげんなコトバ遣いをしていることか……。頭が下がる。

 さらに、毎年毎年、新しい「コトバ狩り」も進行していることを知らされる。
たとえば「OL」は、そろそろヤバいらしい……とか、
 “ポリティカル・コレクトネス”というような、何やら難しい当局の観点からすればダメなのだそうだ。

 っていうか、少しうがったみかたをすれば「OL」というコトバに商品価値がなくなったので、新しいコトバ=記号が必要になり、それにより経済を活性化させる、くらいの企みではないのかな……と感じてしまう。

 またワタクシめがよく使う「私性」というのも、造語だそうだ。非常に重要なコトバだと思うのだが、つまりはニッポンには、そんな概念がいままでなかった、ということなのだな……などなど、考えさせられること数多(あまた)。

 祝浅草「東京旅館」オープン! 
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  2006年1月23日(月)   小説「河原者」最終回
 幾日も、男は歩いた。腐敗臭だけが常に男にまとわりつき、旅の道連れとなった。廃墟と呼べるほどの力強さもなく、何のメッセージも発信しない朽ち果てたる多くのムラをいくつも通り抜け、増水し、決壊したままの川を渡った。

 その一千尺ノ世界が、むかしミヤコと呼ばれていた場所であろうことに、男は徐々に気付きはじめた。氷河が溶け、海進し、ミヤコは水没したという話が、腐敗臭をおびた風にのって男の耳に入ったこともあった。すべてのヒトは、そのミヤコを打ち捨てたと男は思いこんでいた。

 歩き続けるうちに、男は、徐々に日射しがやわらいできていることに、気付いた。まだこのクニにも季節というものが存在しているのか……、としても、その季節に一体何の意味があるのか、男にはわからなかった。少なくとも、ヒトやムラを激しく腐敗させる季節が去ったことは確かであった。おそらくミヤコに近付きはじめているであろうことは感じられたが、それにしたがって、空は鉛色に変わり、気流が変化し、太陽の光が届かなくなってきているといった変化も現れた。腐敗臭は、やがて亜硫酸ガスの匂いへと変わっていった。

 やがて、ますます空は閉じ、暗雲がたちこめているように感じられた。しかし、ガスによって上空がいかなる状態になっているかということを、窺い知ることはできなかった。そのまま歩き続けると、かつてミヤコを一望できていたであろう高台へ出た。男は唖然とした。風にのって聞こえていた話しと同じ光景が、そこにあった。海が進み、ミヤコはフィヨルド化していた。その上に黄色いガスがかかり、そのガスの層をめがけて幾本かの構築物が天へと突き建っていた。

 男は、それらの構築物が、むかしビルと呼ばれていたことを思い出した。男は、高台を降り、明らかに危険であることをその色彩をもって示している黄色いガスの下へ歩き始めた。フィヨルド化したるミヤコには、ヒトが存在した。しかし、そのヒト達はきまってみな、橋渡しをしていた。その橋渡しなしには、今このフィヨルド化したミヤコを動くことはできなかった。その橋渡しの一人に、男は声をかけた、一千尺ノ世界ノ入口ハ?橋渡し達は、上空の黄色いガスの方向を見上げた。なおも男は問うた、何故アナタ達ハ行カナイノダ?と。橋渡しは、ただだまって首を横へ振るだけであった。

 男は、橋渡しにいざなわれ、その一千尺の世界ノの入口へとたどりついた。そこは、巨大な構築物の足元であった。橋渡しは、ただだまって、男と目も合わせず、舟を漕いで去っていった。男は、見上げた、一千尺の上空を……。最初、昔ビルであったとおぼしきその構築物には、フジツボか何かがびっしりこびりついているように思われたが、やがて上空から降り落ちてくるその黄色いガスに目がなじんできたころ、それはフジツボなどではないことに気付いた。それは一千尺の世界へと辿り着かんがための、ヒトの営みであった。途中であきらめ、こと切れて、宙づりのまま営みと命を終えた姿や、果敢に、日に日に上昇しつづける姿もみられた。それらが、びっしりとある種の微生物のごとく構築物にこびりついていた。

男に迷いはなかった。
男は、ズダ袋から、道具を取出し、一千尺の世界への上昇の準備にとりかかった。

 まぎれもなく、その構築物は、男が若かりしころ普請に手を染めたそのものであった。

(了)
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  2006年1月22日(日)    小説「河原者」5
 ムラに入ると、自ずから男の足は、ある一定の方角に進みはじめた。脳ではなく、足の裏が何かを覚えていた。おそらく、眼をつむっていても、歩けるほど、一度この地に通ったことがあるかのような感覚であった。しかし、もう男の記憶の中には、その残像さえなかった。もし残されていたとしても、この変わり果てた地上の様をもってすれば、ほとんど記憶は役にたたなかったことだろう。

 男は、ある一件の半壊したる住居の前で立ち止まった。もう、恐怖心はなかった。かすかに声帯を震わせ、中にいるであろう住人に呼びかけた。ほどなくして、入口のムシロがわずかに開き、二つの眼が現れた。その眼はこういった、ハイリナサイ、と。男は言われるがままに住居の敷居をまたいだ。

 いくぶん外の熱気を防ぐことのできる薄暗い住居の中で、しばらく沈黙がつづいた。暗闇に眼がうすぼんやりとなれてきたころ、二つの眼の持ち主が、男の知己を得たるヒトであることを察した。一瞬、男はたじろいたが、すぐに、それは、住人のコトバによってかき消された。オヒサシブリデス……。それは永らく聞いたことのない、普通のヒトの会話であった。わずかな濁り酒と、乾いた木の実などで男はささやかにもてなされた。男の緊張と強迫観念は、徐々に緩和され、その半壊したる住居の内部へ眼をやる余裕も生まれた。男にとって、幾多の闘いを経てそのぜい肉の削ぎ落とされた住居の、骨や皮は、自らが産み落とした子牛のごとく愛おしいものであった。

 しばし、安寧の時間は流れた。わずかの濁り酒によって、男の脳は弛緩した。しかし男には問わねばならないことがあった。人々はどこへ消えてしまったのか、ということを。住人はすぐにはそれに答えなかったが、天井の隙間から差し込む一筋の光の方をみて、ポツリとこういった、一千尺ノ世界ヘ……。

 一千尺ノ世界……、男は何度もそのコトバを反芻した。そのコトバの意味するところを徐々に理解しはじめるとともに、その安寧の時間は終りを告げた。男は、ズタ袋から道具を取出し、一献の礼に、その半壊したる住居の修繕にかかり、柱をみがき、棟に白い紙のヨリシロをとりつけ、御加護ガアリマスヨウニ……と祈祷した。そして、住人に別れを告げ、そのムラをあとにした。

 砂漠化したる平野に、灼熱の季節がやってきていた。もう、風もなく、腐敗臭がその行き場を失い、地上をさまよっている。その中を、男は一千尺ノ世界へ向けて歩をすすめた。
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  2006年1月21日(土)   小説「河原者」4
 男は墓石群に到った。いや正確には石の群ではなかった。男がそこでみたものは、石灰と砂と小石によってあらかじめ均質に固められた、いわばブロック群であった。男は、それが墓であるともう一度思い直すまでにずいぶんと時間を要した。その唯一の物証は、ずいぶん前に供えられたであろう仏花の枯れ果てた姿と、線香の匂いをのせた風にくるくるとまわる赤いおもちゃの風車でしかなかった。ブロックの一つ一つには製造品のごとくナンバーが刻印され、まるで大量に死者を生産したことを誇らしげに示しているようであった。

 男は、しばしそこに身を伏せたたずんだ。あいかわらず湿った風はふきすさび、その他には何の生命を感じさせる音さえなかった。男は、地に耳をすりつけ、何かを聞かんとするが徒労に終わった。天上からみたブロック群から感じた嫌悪感とはまた違った今度は憎悪のようなものが男をつき動かした。とにかく、青山、死に場所はここではない、ということだけが男にとっての唯一の確信であった。その確信のみが男をまた北東の方角へ歩かせはじめた。

 人々はどこへ消えたのか……全てはブロック群の下に埋もれたのか……。男はその答えを欲した。

 歩き続けて幾日もが過ぎたとき、また幾筋かの煙りがたちのぼり、ヒトの営みを感じさせるムラに近付いた。もちろん男はもうそこから安寧も何も感じることはなかった。ただ黒い氷の表情をもって、ただそのムラの結界をやぶり、つき進んだ。そのムラにかつて男が足を踏み入れたことがあるかどうかなどは、もう判断する必要もなかった。またしたたか打ちのめされてもかまわない、とさえ思った。ただ人々がどこへ消えたのか、さえわかれば、それでいい、と思った。
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  2006年1月20日(金)   小説「河原者」3
男は、茫然としつつも自失へはいたらず、牛の歩をすすめた。「到る所に青山(せいざん)あり」といにしえに聞こうるその青山を求めて、歩をすすめた。

渓谷の清流にて喉を潤し、熱水湧き出づる泉にて、猿とともに洗身。飛ぶ鳥に、現前の果実を横取りされ、しからば地上に落ちたる木の実を拾わんとするも、猪の威嚇を受ける。うす暗く、じめじめと湿けった山中を、ただたゆたい、何日が過ぎたるかの意識も、霧の中へと消え行った。

 日が暮れれば、獣の横穴を借り青草を寄せ集め、意識とともに自らの姿も消し、次の朝目覚めざることを祈りながら深い眠りにつくが、果たせず、朝露のしたたる草木に乱反射したる陽光にて、目覚めることを強いられた。男は、青山に至らんかぎり、死ぬことさえ成就しないということを自らの肌で感じ、傷口が化膿し腫れ上がったそのからだを引きずり、とにかくその山を抜けようと歩いた。

 何かの導きをうすらうすら感じつつも、所詮そんなものは幻覚にすぎないと、わずかに残された強めの精神を拾いあつめて振払った。むしろ肉体しか信じるものはない、精神はもう捨て果てただろう、と自らに問いただし、しかしわずかに最後まで消せなかった木の葉程度の記憶のために、今自らは橋の下を捨て、歩いているのだということを思い起こさせられた。

 男の弱りきった眼に、ひとすじの光が差し込み、そこが山の端であることを示していた。小高くもりあがったその頂部に、イナリの小さな祠(ほこら)が目に入る。このイナリに自分が導かれていたのかどうかを考える余裕はなく、とりあえず男はそこへ駆け上がった。眼下には殺伐とした平野がひろがっていた。北東の方角から弔いの香りをのせた風がまきあがり、男の嗅覚と脳髄を刺激した。

 男は、霧がかかったようにしか見えなくなってしまった眼を、よくこらして眼下に広がる平野をみた。そこには、無数の墓石群があった。男は自分の死に場所、つまり青山を、天上からみてしまったことに少なからず後悔した。自分がその、墓石群の中の一員になることをどうしても拒みたいという念が生じた。しかし自らの往生際の悪さを責め、その平野まで降りていき、自らの触覚でその墓石群を確かめねばならないと思い、山を下りはじめた。
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  2006年1月19日(木)   小説「河原者」2
 自身の満足感のみを滋養として、さらに歩きはじめた男は、つぎなるムラをめざした。

 ひくい丘陵をいくつも経て、遠目にそのめざすムラはみえてきた。幾筋もの煙りが春霞のなかにたちのぼり、穏やかな光景をつくりだしている。男は、しばし忘れかけていたその安寧に呼び寄せられるように男はムラの中へと立ち入った。そのほとんどは打ち捨てられたる住居ではあるが、煙りの匂いをたよりに、ヒトの気配へと近付いていった。

 煙りがたちのぼり、ヒトの営みを感じることのできる一件の住居は、男がめざしていた住居であることがわかった。住居は半壊したのち、幾ばくかの手が加えられてはいたが、それはその場をしのぐためのものであって、けっして恒久的な生への意志が感じられる方法によるものではなかった。言い換えれば、そこからはムラを打ち捨て出て行った人々に遅れをとってしまったことによる晦渋の念が感じられなくもなかった。

 男は住居に向かって思いきって声をかけた。もう、何年もヒトと口をきくことのなかった男の口からは、かすれた力のない、声とは言えない声しか出なかった。しかし、過去に男の知己を得たであろうヒトがそこにおわしまするに違いない、という若干の期待のまじった気持ちから、男はその声にならない声をさらに発した。

 ばさりと住居のむしろが半分開き、内部の暗がりから、二つの瞳が男をみていた。その二つの瞳は闖入者が何者であるかを察したようで、男が、久しく笑うことさえ忘れたその面を破顔させようとしたその瞬間、あらんばかりの罵声を男に浴びせ、中から這い出て来て、近くにあった棒きれで男をしたたか打ちのめした。

 男は、ただ身をすくめ、なすがままに、打ちのめされることを受け入れた。何らかの弁明をせねばという気が男の中になくはなかったが、やがてそれはどこかへ消えていった。男が何のためにここへ来たのか、その事由くらいは申してもいいのではないか……とも思ったが、それさえ打たれる背の痛みが増すとともに、どこかへ消えていった。

 男は、思いを告げられず、そして果たせず、腫れ上がったカラダをひきずりながら、そのムラを後にした。破顔の手前までいったその表情は、その状態のまま、また凍り付くこととなった。

 ヒトの営みを感じさせる安寧の光景は、男の身勝手な妄想であることを深くおもい知ることとなった。
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  2006年1月17日(火)   小説「河原者」
 錆びたり曲がったりした釘を拾い集め、一本一本金づちで伸ばし、そして磨き、小さなのこぎりの歯を整えたり、小さな角材や針金などをひろい集める、そんな日々をずいぶんと永いあいだ送っていた。

 ある年の冬至の頃、そのクニの地下に潜むナマズが寝返りをうったため、地上の様々なものが崩壊した。とうぜんのごとく橋も崩壊し、濁流にのまれるがままとなった。ボロをまといつつ、見ようによっては落ちぶれた僧にも見えなくはないその男は、住処にしていた橋の下を失い、ずだ袋を下げ、河原を後にして歩き始めた。瓦礫をかきわけ、火の手が追ってくるのを避けながら、逃げまどう人々とは反対の方角へ男は歩いた。

 四十九日ほど歩いただろうか。誰も人のいない、くすぶる人家の中を彷徨い、一件の半壊したる住居の前で立ち止まった。住人達はすでにそのムラを打ち捨て、新しいムラでの生活をはじめているようであった。男はその打ち捨てられたる住居の中に身を丸め、微睡み永い歩行の疲れの中に落ちた。破れたる藁の屋根からは早春の日がこもれ、その湿りきった住居とその男とを乾かしはじめた。土を固めた床からは、小さなキノコが生え、住居のまわりには土筆が生えはじめていた。目覚めた男は、そのキノコや土筆を食べ鋭気と滋養をやしなった。そしておもむろにずだ袋の中から金づちや釘を出し、もう住人を失ってしまい、再び住まわれることのなかろうその住居の修繕をはじめた。

 崩壊したそのムラの中に、ただ一つだけ修繕され、陽光を浴び棟を高らかに上げている住居を一つみることができるようになった。修繕を終えた男は、白い紙切れを神のヨリシロとして住居の頂部にしばりつけ、口に含んだ濁り酒を住居のまわりに吹き、わずかばかりの穀物をばらまき、祈った。

 そしてその住居をあとにして、男はまた歩き始めた。
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  2006年1月15日(日)   ほ〜ぅ
つかの間のハレの日をぬい、歩く
素直な性格なので、昨日読んだ本に影響されながら新宿の北側を歩く

まずは都庁に初詣

あたたかな陽の中、みな「ほ〜ぅ」という声を押し殺しながら、窓景に望む
その人々を観察するK-2
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  2006年1月15日(日)   地霊
なんとも微睡(まどろ)まんばかりの光景
牛ではないのだから午睡に落ちぬよう尻をたたき、下界へ墜落し、歩行へ
今日は、このあたりを調査する
(誰にもミッションを受けてはいないが……それがK-2、されどK-2)

要は、西新宿の旧十二社(熊野神社)のあたりの地霊を感じたかったのだ
そして「中野長者」の面影を

それは、あった
少なくとも、アイルランドの妖精よりは、簡単に感じることができる

いつもは、ただひたすら恐ろしいスピードで歩行するのだが
本日は、「坂」を上がったり下ったり
またいつもは無視していた「お稲荷さん」を重要視したり、アクシスやオリエンテーションや地勢を感じたり
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  2006年1月15日(日)   弁天-天神-稲荷
西新宿6丁目、渋谷本町、中野本町、成願寺、神田川沿いを下る、小滝橋
旧道は、神田川よりせりあがる地勢と、橋と、お稲荷さんなどの軸線と、本郷などちょっと先へのルートを主として構成されていることを感じることができた

高田馬場へ出て、西早稲田、学習院(女)の横をぬけ、箱根山(戸山公園)へ初登頂(標高44.6m)
昨年愛宕山への登頂をはたしたので、未登頂の東京の山はだんだん減りつつある

そして若松河田へは落ちずに、抜弁天を、西向天神様の方へ落ちる
そして、その軸線の先は、花園稲荷神社、なじみの場所へ出た

餃子を食べて、オランダの「MARK」という洋雑誌を買って、帰途につく

「偽ライカ」君はよく働いている
昨年使っていたポラロイドに似て、鈍色で彩色のない感じが素敵だ
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  2006年1月14日(土)   粘菌生活者
はやすぎる春雷まで呼び、止まぬ雨、
散歩もできないので「散歩本」を読んだ。

『アースダイバー』中沢新一著(講談社刊)

以下いくつかのコトバ拾い

「頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのでなく、水中深くにダイビングしてつかんできたちっぽけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。」

K-2)が、電波と電線とその末端に座する人々と、それをあやつる人々によって現在の世界はつくられようとしている。泥はどこにあるか?自分の足元にある。

「アースダイバー型の社会では、夢と現実が自由に行き来できるような回路が、いたるところにつくってあった。」

K-2)それを商品化した回路が、東京の繁華街である。商品化されない部分の夢は、随時現実へと埋め立てられてしまったので、散歩していても相当の想像力と妄想を喚起せねば、夢へと自由に行き来することはできない。

「縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。」

K-2)そう、「建築の人間」つまりものつくり人の持っている「サキッポ愛好」は、かなり遺伝子レベルのものなのだろう。「ディテールに神が宿る」のでなく「サキッポに神が宿る」のだということに、ワタクシメもうすうす気付いてはいた。

「ところが、二十一世紀がほんとうに必要としているのは、たくさん生産してたくさん消費するものではなく、たくさん分解し、旺盛に解体作業をおこなってくれる、苔やバクテリアのような存在なのである。」

K-2)もしくは東京が撤去してしまった「陰、影、湿、性、愛、闇、聖、喜怒哀楽、無意識、象徴」の部分をあらたに生産していくことが必要である。

K-2)ワタクシら建築家は都市計画に対して痴呆的になっているわけではない、今、分解し「自分の中で」まず溶解、解体させているのだ。もちろん、そんなのんびりした「無時間的行為」をしり目に、ヒューザーや森さんはせっせとカラッカラッの干し貝柱のような街をつくりつづける。もちろん「喜んで」大衆はそれを買う。

「資本主義は象徴が嫌いだ。象徴は高次元的に、自分の中に世界を閉じ込めている。それだと、商品や情報にならないというので、資本主義はもっと根も葉もない記号の方を愛するのだ。記号は薄っぺらなところが魅力的である。」

K-2)ブランドは記号であり象徴ではない、安藤忠雄でさえブランディングされてしまったという意味も含めて。

K-2)ワタクシめは「象徴」も表出するし「商品」もつくる。その矛盾した両者との「行き来」が重要だと考える。大衆の一人として。
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  2006年1月13日(金)   路上派 はぐれ建築家
写真機を購入した。
MINOX DCC Leica M3
つまり“高級おもちゃカメラ”だ。

ストラップを付けて、首からぶらさげ、さっそく街に出て、撮る。
この時代に“液晶画面がついていない”というのがミソ、ちゃんとファインダーをのぞく。

また「カメラは首からぶら下げるもの」というニッポン人としてのオーソドキシーをつらぬかんがごとく。

キッチュを極めることで、ホンモノの外堀を埋めていき、やがて浮かび上がってくるか……
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  2006年1月10日(火)   不二白昼
「東京旅館」のホームページ(作成中)↓
http://www.tokyoryokan.com/

まだオープンしてないので連絡先がないですが
「台東旅館」というのが近所にありまして、そちらとオーナーさんが同じです↓
http://www.libertyhouse.gr.jp/

ので、オープン時期や価格設定はこちらから問い合わせてみてはいかがでしょうか?
http://www.libertyhouse.gr.jp/reservation.htm

※ オーナーさんからは「のんびりやりたいので、あんまり宣伝しないでね……」と言われています……(汗)

よろしくどうぞ

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  2006年1月9日(月)   東京旅館奇譚1
こう、何と言うか空間を“たゆたう”ような人の動き……
そう、暗くて青い水槽の中を、“たゆたう”金魚のごとく
ボニー・ピンクの「金魚」という曲のごとく

もしくは澁澤龍彦の處女作「撲滅の賦」の一節のごとく……

「しかし面白くないのは彼女の理屈そのものではなくて、そのとき私が金魚に対して感じた言おうようない劣等感であることをまだ私は意識していなかった。」
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  2006年1月9日(月)   東京旅館奇譚2
もしくはアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」の一節のごとく光景……

「こうして娘は、根気のいる気ちがいじみた建築法によったそのほんものの小さなチョークの城を食べてから、薄ねずみ色のマントを肩にひっかけ、二匹のはつかねずみの皮を足にはいて、見たこともない幻想に通じる自由の階段を降りていった。」
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  2006年1月9日(月)   東京旅館奇譚3
着物を召された人が室内にいると、洋服というものがとっても貧相に感じてしまう。
なんという“作業着・戦闘服”を着て、我々は日々生活しているのか……といった気分に襲われる。
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  2006年1月9日(月)   東京旅館奇譚4
OCMの“着物の似合うニッポン建築”を「実証」せんがために、何名かの方にお着物でお越しいただき、写真機におさめる。
軽い“コスプレ”
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  2006年1月9日(月)   見学会
「東京旅館」見学会、盛況でした。
ありがとうございます。

明治大学建築学科田路貴浩助教授
建築家 大久保慈さん(ヘルシンキ)
建築家 鈴野浩一氏(トラフ建築設計事務所
建築家 滝澤俊之
建築家 荒木毅氏とスタッフの方
建築家 槻岡佑三子さん
アーティスト 吉水浩
インテリアデザイナー 和田浩一
インテリアデザイナー 山田健一郎氏
インテリアデザイナー 佐々木玲
ギャラリーsite  斉藤康
ライター 長嶋由里子さん
ライター 加藤純
写真家 梅佳代さん
バンタンデザイン研究所卒業生・在校生の皆さん
バンタンキャリアスクール卒業生の皆さん
Y夫妻
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  2006年1月7日(土)   参考まで
『東京旅館』はゲストハウス、バックパッカーズホステル、ドミトリーといった施設に位置付けられます。

通常は二段ベッドのドミトリーが世界的にもポピュラーですが、こういった和室のものや3畳一間の一人部屋も多くあります。

最近では3畳一間をより現代的にデザインした行燈旅館というところもできています。
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  2006年1月5日(木)   「“悪い”景観」
新春早々、ショッキングなウェブ・サイトをみてしまった。
久しぶりにランドスケープの人石川初さんのウェブログを読んでいると、こんなサイトが。
「美しい景観を創る会」の「悪い景観100選」
その構成メンバーをみると、東京大学中心の建築界におけるアカデミズムの権化のような人々の中に新宮晋氏などの免罪符がちりばめられて、なんとも鬼火ただよう感じ。

一言。「これはまずい」

小倉善明氏などは日建設計にて、それこそ高度成長期からバブルにかけてバンバン超高層設計ビルを建てまくって来た人。宮本さんはちょっと違うがその他の人々も概ね、右肩あがりな人々。

自分達のやってきたことへの自己反省なしに(あることを願う)、また今のニッポンをぶっ壊して、さらなる経済効果(税金をつかった研究や、解体そしてさらなる建設行為)を産み出そうとしていることが一瞬でみてとれる……。

ショック。

石川氏らの「地上のインターフェースに対する探究」が、もう少し大きな波になってくれることを祈るばかりである。

おそらく、僕もそれをやっているつもりだ(地形まで及んでなくて、表層・表象レベルだが)。毎日撮り続けている写真も、その探究の一部である。

「悪い景観」という発想が僕の中にはない。
すべての景観は僕にとって愛おしい。
人間は最大のゴミである、というところからのモノの考え方。
もしあるとすれば、それらが我々に訴えかけるものをよく読み解くこと。なぜそんなことをしてしまうのかという人間の業および現在のニッポン人の来し方行く末を時間をかけて研究する事が重要であると思われる。

写真:2006年1月1日午後の新宿
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  2006年1月4日(水)   『東京旅館』見学会のお知らせ
当K2(建築ツウ日記)で一年に渡って触れてきました「浅草の旅館」改め『東京旅館』が完成し、皆様に御披露できることになりました。

場所:台東区西浅草2-4-8
日時:2006年1月9日(月・祝)16:00頃〜19:00頃まで

海外からのバックパッカーのための、基本的にはホステルスタイル(相部屋)の小さな旅館です。

夕暮れ、不安な気持ちでニッポンに辿り着いた旅行者の気分で、是非
おこし下さいませ。

※着物・和装大歓迎、もしくは旅人な感じ。
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  2006年1月4日(水)   『東京旅館』コンセプト
建築家におけるコンセプトとは、その人の血であり肉である。
つまりそれは知やアイデアとは異なるものであり、後天的になかなか獲得しにくいもの、である。

25才の時の旅のメモをみてみよう。
そこには、ゴミのような東洋人バックパッカーが、毎日安宿をさがし、疲れ果て、そしてわずかな“何か”に安堵を求める姿が描かれている。


「1990.3.10 朝、ウィーン。九時半の列車でブタペストに向けて出発。ウィーンのユースホステルで同室だった専修大のM君と同行。1時到着。街の中心から少し離れたcolumbusというところのプライベートルーム(人の家)をIMBZUで紹介してもらう。一泊400フォリント(800円)。思っていた程安くない。」

「1990.3.24 やはりいくらTGVに乗れたと言っても、夜にパリに着いたのはまずかった。サンジェルマン辺りのユースホステルを軽く断られて、400室というのに希望を持ってporte de bagneleのユースホステルに来たがいっぱい。そのかわり近所の文化センターみたいなところに格安の59Fで泊まった。まあ良しとしよう。湯が出なかった事以外は……。」

「1990.3.28 夜行バスでロンドンに着いた。往復で450Fであった。一番近いユースホステルはまずclosedで二つ目はfullで、そこから近所のhostelを紹介されたが、そこもfullで、そこからあやしげな車に乗せられここpalace hostelに連れてこられた。8ポンドだけど布団がふかふかしてなかなか居心地が良い。眠かったので、3時半頃まで寝ていた。」

「1990.4.6 パリからナポリへ。昨晩の夜行列車は悲惨そのものだった。フランス人のいけずな夫婦にいじめられた。おかげで痔になった。しゃれにならない。しかしひどい車内だった……。一度も横になれなかった……。ナポリユースホステル泊。」


『東京旅館』の設計にあたって、建築家であるまえに、まず一人の旅人であったことを忘れてはいない。
それこそが、知でもアイデアでもなくコンセプトと呼ばれるものである。
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  2006年1月3日(火)   詣でる意味
上京して15年が経つ

最初の一年は西武沿線の下井草、だからその果ての正福寺地蔵堂に挨拶
次は目黒不動前に四年、散歩の途中、大鳥神社に挨拶
恵比寿に十年、小さな恵比寿神社に、毎年、まっ先に挨拶

浅草に旅館を建てた、だから最後に浅草寺に挨拶

「ありがとうございます」

ただそれだけ

浅草寺の参道のアーケードがとれていた。
ちょっと闇市っぽいが、その先にコンクリートの浅草寺の甍が垣間見られる。

アイストップ、アクシスを強調するには、アーケードはないほうがいいな、雨の日の参道の売上げを考えれば、あるほうがいいのだろうな、などと。
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  2006年1月2日(月)   OCMの正月飾
基本は、三具足、真ん中に香炉、左に花瓶、右に燭台……だが鏡もちに変えてみた。燭台は持っていないので、両脇にお煎茶で使う“錫の茶托”を燭台のみたてとして用い、なんとなく五具足っぽい雰囲気を出した。

手前には、日々の道具達(太子講のごとく)
測る、もしくは図るためのスコヤ
書く、もしくは描くための鉛筆
講ずるための伸縮差し棒
知との決別いまだならぬことを示す辞典(GEM)
愛用の写真機

今年は燭台を物色しよう……

健阿弥
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  2006年1月1日(日)   2006
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  2006年1月1日(日)   ボン・アン
「オオヤマアツコ(おそらく寺山修司の大山デブ子がモチーフみたいだ)というダンサー、一龍社という舞踏集団のダンサー、110才だという。獅子舞をなまずにしたみたいなかぶりものをかぶって踊っている。

 小さな携帯用ロボットが動き回っていて、すぐにカバンの中に仕舞われる。『一人暮らしの人にはいいですねえ、さみしくなくって』などとつきなみな会話。

兄さんが受験生で、また浪人をしそうで焦燥し殺気立っている。新しい予備校の受験で、なぜか文科の方へ進もうとしているので指摘すると、コトバを濁す。一番高いところの席に兄さんの荷物がおいてあってそこに行くとあわてて兄さんは自分の荷物をかかえてその中から布にまかれた小刀をとりだして威嚇している。

のどからチューブを入れられて、そのままにされて、そのチューブの中に何かまた入れられそうになったので、また高いところへにげる。そこから水をまいて下にいる人を威嚇する。

110才のダンサーとは別にベイビーの構成員がいる。なるほどさてはサイボーグ009みたいなことになっているのだなとうすうす感じる。

試験が終わってビールだというのに妹を含めた連中はなかなかビールを買いにいかない。で、何か別のモノをむしゃむしゃ食べているので怒る。『ビールはネットで頼まなければいけない』などとわけのわからないことを言うので、切れて、自販機で買ってくればいいではないかと言う。

コンクリートの土饅頭(スツーパみたいなもの)に社寺が食い込んだような酒屋で、口に口金のついたおじさんが小粋にビールを売っている。
スケルトンのスライダーのような自販機にコインを入れるところ……」

初夢の自動記述
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  2006年1月1日(日)   ちゃんとTOKIO
午、「そうだ、東村山へ行こう」と
正福寺地蔵堂へ。

東京唯一の「国宝」である。
全国に125箇所、209件あるうちの、たった一件。

でも、誰も知らない、誰も誇らない、それが東京、OK。

どんな建物かというと、まあカマクラの円覚寺舎利殿と同種のものである。舎利殿はその名の示すとおり、ブッダの遺骨が安置されているわけだが、正福寺地蔵堂は、その名の通り、お地蔵さんがたくさんいらっしゃる。

円覚寺舎利殿は、200円はらっても、遠くから、その肩の一部しかみられないが、正福寺地蔵堂は、無料で、かつ、元旦の、この、めでたき日であっても、檀家さん以外、ほとんど誰も人がいない……。

「建築ツウ」としては、偏見を確信に変えるため、わざわざ元旦に参じ検証した、というわけだ。

しかし、美しい……。
豪放な禅宗様のはずが、ニッポン的繊細さが随所に……。

皆さん、「そうだ、京都へ行こう!」という第三権力のなすがままでなく
ちゃんと東京をみましょう。
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