OCM一級建築士事務所
 

2004年01月


  2004年1月31日(土) 聖地奪還
1月が終わる。密度の濃い1ヶ月であった。今日は一日「祭事」についての文章を書くため、地鎮祭や上棟式のことについて考える。なぜ僕が「祭事」についての文章を頼まれるのか考えてみれば不思議だが、考えないようにする。ハッキリ言って嫌いではない。建築を通じて人間や社会やニッポンの事を深く知る事になる。大地主神(おおとこぬしのかみ)についても建築をやっていなければ考えることはなかっただろう。また知りたくない事も知らねばならない。そのことは多大なストレスになる。平安貴族はストレスがなかったので眠らなかった…という説があるが、僕は8時間眠らねば次の新しい朝を迎える事はできない。

建築は「全部のせ」である。そこから何かを減ずることはできない。減ずればきっと楽になるだろう。しかしその時点でそれは建築ではない。全部のせてのせて、その彼方にみえるものを追求する方を信じたい。

【恵比寿ラーメン盛衰記】
ラーメン「アフリ」に激しい行列ができはじめた。中堅「山頭火」にはもう行列ができなくなった。老舗の「香月」はとうとうテレビ、ラジオでCMをうちはじめた、商社に乗っ取られたのではないか。「丸富」はもう「背脂チャッチャ」の存在意義をどこにも見出せなくなった。決してブームに乗らない「尾道ラーメン」「会津ラーメン」はひょうひょうと変わらず営業をつづけている…。「光麺」「よってこ」はバックの実業家がしっかりしてるのか酔っ払いには相変わらずの人気。「ちょろり」はラーメンだけでなく飲み屋の様相を呈し、「ひろせ」「壱参ラーメン」は西口にあって地道な戦いを続けている。「一風堂」「九十九ラーメン」は相変わらず女性客が多いので「行かない」、おっさんの「聖地」奪還の日は遠い…。

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  2004年1月30日(金) 散歩の達人
朝から「小岩の家」現場。大工工事が最終段階にさしかかり、そのチェック。なかなか良いできばえに、みな機嫌がよい。時間がなく、徒歩20分の道のりを走って駅へ。その途中、『散歩の達人』で市川・本八幡・小岩特集をやっており、本屋の店先で山積みされていたので買う。そしてまた走る。なんとか新宿バンタン13:00に間に合う。

『散歩の達人』“市川・本八幡・小岩”特集はとてもうれしい。なぜならば、ディープな「酔余漫筆」マニアであればおわかりのように、OCMには「本八幡の家」「小岩の家」があり「検見川の家」の施主は市川工業高校の先生である。ここ数年の間に、すっかりこの地区に通うことが多くなり、ひそかに「いいところだな…」と感じていたからだ。本八幡は田園調布、芦屋につぐ高額所得者?納税者?の地域であったらしいし、本八幡の界隈はまさに芦屋川、夙川あたりの雰囲気とそっくりなのである。かつ、決してミーハーではなく、しぶくて、かっこよくて、しかしあまり品の良くない地域も包括しながら、見事な町を形成している。品がいいだけでは街は成立しないのだ。
『散歩の達人』に一件「蔦屋」という市川の餃子屋がでていて、嬉しいような悔しいような気がした。昔、美容師のキモトさんとバイクで千葉までツーリングしたとき、帰りに雨がふってきて、途中で雨宿りにと偶然はいって、冷えきったからだを熱い餃子であたためた覚えがある。その時以来、たまに通っている。汚い店で、餃子しかメニューにないくせに、餃子売り切れのときがあるし、かといえば、ちょっとあまったからと餃子を多めにくれたり、とてもいいところである。が、なにしろ汚いので、「フツー」の女性の方は行かない方がいいだろう。こういうところは「おっさんの聖地」だな…。

小岩にも行きたい店がいっぱいあるが、恥ずかしいお話で、なかなか立ち寄る暇がない。そろそろ「小岩の家」も竣工してしまう。
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  2004年1月29日(木) 合評会
バンタンデザイン研究所中目黒にて「9坪ハウス」の合評会を行った。インテリアデザイナーの和田浩一氏をゲストに招き、10数名がプレゼンテーションする。年々学生の質があがってきている。僕の言う事を「気持ち悪い」くらいよく聞く。授業だけでなく世の中の良いデザインに触れればもっと彼らはいろいろ吸収していくに違いない。

終了後、中目黒の「ばん」というもつ煮込みやで打ち上げ。和田さんと数名の学生、それになぜか「神業ルームメーク」のアキラ君とそのアシスタント稲村君も加わってビールと熱燗を飲む。
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  2004年1月28日(水) 感受性
建築家村野藤吾はこう言っている。
「ものをつくることだけを生産過程を知的にいくら推しすすめていっても、ただそれだけでは建てものにはならぬだろう。」
そう、あまりに知的で論理的であることは「痴呆的」であると僕も考える。難波和彦さんの「箱の家」シリーズなどはまさにその典型。“人間の家は「箱」でよい”と言い切ってしまって「東大の教授」になれるのだからニッポンの未来は危うい。

また村野藤吾はこうも言っている。
「建築家に必要な素養は数学と文学である。」
と。

文学とはつまりは感受性のことだと。
「感受性豊かな子供」を育てたいということはよく言われるが、「感受性豊かな建築家」がもっと増えねばこれまたニッポンの未来は危うい…。
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  2004年1月27日(火) 無題
本日4時から面接予定だった青年が、3時頃メールで
「今日4時に面接をお願いしていたのですが、就職が決まったので、まことに申し訳ありませんが辞退させていただきます。」
と伝えてくる。
「メ・ー・ル・で」
世の中そんなもんだ。就職がない就職がないと騒いでいるが、自分たちで自分たちの首をしめているだけだ。
「大道すたれて仁義もない」世の中になってしまった。
これで「OCM面接」も当分シャッターを閉じざるをえない。

今OCMに来ている二級建築士の女性は昨年の夏頃面接をした。そして今年になって連絡してまだフリーだというので来てもらっている。はやりの陳腐な言葉でいえば「スロー採用」である。

毎晩寝る前に村野藤吾の著作集に目を通している。
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  2004年1月26日(月) BRIWAX
朝から『代官山 museum of share spirit』にてツナギを着て木部のワックスを塗る。とにかく力を入れて熱を持つぐらい磨かないと光らない。本工事ではあるが、塗装業者は「光る」ところまではやってくれなかった。自作のサンプルは渡していたのだがきっと「ふん、冗談でしょう…」ぐらいにしか思ってなかったのだろう。冗談ではないところを自分で「スタンドプレー」で現場でみせねばならない。昼飯も食わずに、3時くらいまで磨く。片野氏も朝からつきあってくれて、アンティークの椅子とかを磨いていた。右腕があがらなくなり、腰が萎えはじめ終了。フラフラで尾道ラーメンに駆け込む。太麺¥600-を注文。

『幡ヶ谷の家』3社目の解体見積もりあがる。『蕨の家』施主より、プランについての細かい指示届く。

夕方、中高の同級生、大阪毎日放送の中野健君が急にやってくる、「ちょっとTBSにようじがあったからよっただけ、はい」と僕に日本酒「飛良泉」を手渡し、「東京駅まで何分?」「22分、今は品川からでも乗れるけど」「え?そんなん知らん」と15秒くらいでそそくさと帰阪する。

中野君が帰ったあと、さっそく酒を賞味する。さっぱりとした味だった。
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  2004年1月25日(日) 錬金術
昨日は一日中床に臥していた。

今日はそのインタビューテープを文章に起こしはじめた。
夕方東急ハンズへいって、ジルコンの間柱探知機、電気ドリル用のアーバー、羊毛フェルトバフ、真鍮黒染液、塗装剥離剤、赤錆発生剤、真鍮の鋲などおよそ建築家らしからぬ怪しいものを購入した。工具売場にユーズドの産業工具が格安で売っていたので、万力みたいなものや巨大ノギス、などを購入。ハンズはたまに「ありえない」ようなものを格安で販売したりしているので楽しい。

帰って来て、真鍮のスイッチプレートをさっそく錬金術師さながらに黒染めさせる。

写真はその万力のようなもの。
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  2004年1月23日(金) 普請道楽
 夜、雙徽第ニテ「普請道楽のススメ」インンタビュー敢行。21:30新大久保で西大條氏と落ち合い、海洋ホテルでデザイナーの佐藤さん、カメラマンの田中氏らと一緒に食事。終了後雙徽第へ車で向う。23:00頃雙徽第到着。写真のメンズ二人が、こうこうとライトに照らし出された庭の手入れの作業を黙々とやっている。メンズの労をねぎらいつつ西大條氏は入浴。あがった後、西大條氏も作業を手伝いはじめる。独り残された僕は電気オルガンを弾いたりして時間を過ごしたが、やむなく庭に出て落葉を集め焚き火の作業を手伝わしていただく。26:00ようやく作業終了。僕は焚き火にイブリ出され体中の炭火焼きみたいな匂いにむせながら激しい睡魔におそわれる。丑三つ時、やっとインタビュー開始。睡魔と疲れを芋焼酎でごまかしながら、西大條氏から話しを引出す。

朝の5時半頃ようやく終了、というか僕の体力の限界のためインタビュー続行不可能。西大條氏はやっと口が滑らかになりはじめた感じで「もういいんですか?もっとやりましょうよ」とおっしゃってくれるが僕はこと切れた。「泊まっていけ」とおっしゃっていただいたが「もう泊まりました」とわけのわからないことを言って、電車に乗り帰ってきた。寒さと睡魔と疲労と酩酊で前後不覚。朝7:00頃恵比寿にたどりつきふとんにくるまった…。

いつまでたっても口を開かない川端康成にはりついている取材陣のような気分を味わったが、これぞ「普請道楽」としかいいようがないな…。
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  2004年1月22日(木) 野丁場
『○築知識』の原稿を一気にかくが、全体のテーマを網羅しないうちに字数が満ちてしまった。どんなテーマでも、そのニュアンスやメンタリティーにまで触れ出すと延々と文章は流れ出す。あとは編集の人と相談。字数が足りないよりはいいだろうと勝手にきめつけている。

今まであやふやに使っていた言葉、例えば「野丁場」や「町場」「常傭」についても文章化することによって現代なりのかつ自分なりの解釈を与えることができるので、文章を書くということの意義は深く大きい。
例えばこんな使い方もできる。

「あそこの設計事務所はすっかり“野丁場”みたくなっちまった」
「設計料も“常傭”にしてもらえないかな」
といった具合に。

先日新人所員を現場に連れて行ったら、大工さんのしゃべっている東北方言と大工用語の入り混じった会話にドギモを抜かれていた。イタリアに留学経験のある新人所員にとって現場の会話はおそらくイタリア語より難解だったことだろう。

「インニッサン、インゴ、シャクゴスン、シャクッテ、オッツケテ、ブッテ、カイモノイレテ、オオテハッテ、ヒモウッテ…」

『○築知識』に現場会話の教則本の企画を待ち望む。民俗学、考現学としての価値も高いと思うのだが…。
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  2004年1月21日(水) 大プロジェクト
夕方、OCMで働きたいという青年と事務所で会う。前にも書いたが、新規の建て主からのメールよりも「働きたい」という希望者の方が多い。募集広告も出していないのに。

 メデイィアを使って世の中に発信している僕のメッセージはどこかでボタンをかけちがっているのではないかと不安になることがある。建築修行道場でもつくった方がビジネスとしては良いのかもしれない、マーケットは確実にある。でももちろんそんなことはやらない。

仕事は忙しいが、どんどん人を雇うほどでもない。でも「とりあえず面接の練習でもしましょう」ということで、優秀そうな人とは極力会うようにしている。今日会ったE君は頭脳明晰で、複雑なプログラムの解決が必要なプロジェクトを是非まかせてみたいと思った。が今のところOCMにその予定はない。「優秀なんだからもっと大きな企業に勤めたら?」と聞くと「いやです、住宅からはじめたいのです」ときっぱりと言う。

世は不況だと騒いでいるが、若者の志はかわっていない。ただ、そういう青年が外でアルバイトをしていると「フリーター」と呼んで世がいぶかしがっているだけだ。

「君にふさわしい大プロジェクトがきたら連絡する」と言って面接を終わった。
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  2004年1月20日(火) ロース
午前コンピューターの調子がおかしいので、古い電子メールなど整理する。

午後『小岩の家』現場。寒いが天気がよく、駅から現場までの20分の徒歩の間にカラダは暖まる。現場は順調の様子。内部造作の細かい点について打ち合わせする。延床面積19坪の小さな家だが、その小ささを感じさせない「懐の深さ」「襞の多さ」を出せるかどうかがポイントである。写真映りの良い吹抜け空間などはない。35mmのレンズだとほとんどその空間を写しとることはむずかしい。しかし、ある時期から「雑誌映え」のするそのようなわかりやすい空間に興味がなくなってきた。むしろ少し紋切り型で「はずかしい」と思えるようになってきた。
もっと違うところ「あっこんなところに穴が…」とか「あっここあがれるの?つながってるの?」とかそういう事の方が面白いと感じている。それはおそらく住んだ人にしかわからない面白みであると思う。

建築家アドルフ・ロースの模型は他の近代の建築家と比較して「重い」といわれている。おそらく謎の界壁が建物内に巡らされているのだろう。彼の追求した「ラウム・プラン」という考え方も複雑で一筋縄には解釈できない。しかし解釈できないまま片思い状態でそのような一焦点でない複眼的な空間がつくれればなと思う。

写真は安価なSPF材をプレンナーがけしたもの。きれいな素地が現れてニッポンの造作材としての使用に十分耐える。
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  2004年1月19日(月) にごり酒
朝から相見積に出す図面の整理と、相見積なのに一つ一つに手書きで「御協力お願いいたします。」としつこく添える。少しホッとするがこれからが勝負だ。

母から小包が送られてきた。
中身は元旦に仕込んだ明石市大久保町の茨木酒造のにごり酒、冷酒、そして明石魚の棚「魚秀」の鯛の汐焼、その他なぜかねぎとかしめじが入っている。

母曰く「米は大久保産の山田錦、手植、手刈、手作りの酒だ。明石は昔「西灘」と呼ばれ90軒の酒屋があったが、今は9軒でがんばっているのだ。」

写真は母がその元旦の仕込みになぜか立ち会っていて撮った写真だそうである。

息子が息子なら、親も親である。あきれてモノが言えない。

世の地酒ブームに常に警鐘を鳴らしている(?)酔余漫筆だが、このように酒を送られると「地酒」なんて意味のない言葉を超えたありがた味が沸いてくる。
その人その人のこだわりがおもしろければ良い。こだわりがない人が、おしゃれ雑誌を読んで「地酒を勉強」しているのだ。

今は18:00…
19:00になるのが待ち遠しい。
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  2004年1月18日(日) 湘南
朝から「蕨の家」打合せに向う。恵比寿とお宅のある戸田公園は案外近い。埼京線で乗り換えなしに28分である。もともと田舎育ちの僕にとっては、都心からのんびりとした郊外に向う時の気持ちはどこかほっとする。

徐々にプランの方向性がかたまりつつある。しかし、昨晩の「幡ヶ谷の家」の影響で、どうもまだ基本設計段階なのに、「ローコスト」ベクトルが働きすぎて、建て主さんにつまらない思いをさせているかもしれないと、また反省。
御要求を飲めば飲むほどコストはアップし、最終的には建て主も建築家も困り果てる。でも計画段階で「それはできません」と言った時の建て主さんの悲しい顔をみるのもいやだ。一体どうすればよいのだ…、というのが僕らの仕事なんだな。

帰りは埼京線が新宿止まりで「湘南新宿ライナー」というのに乗り換えて不思議な気分で2階建て列車にのって恵比寿に戻ってきた。不安だったがちゃんと恵比寿に止まった。べつにそのまま湘南まで行って、冬の海でもみてきても良かったのだが…。
二階建ての1階の席に座ると写真のような不思議な目線になる。
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  2004年1月17日(土) ジャズ
午後「幡ヶ谷の家」打ち合わせ。本見積の報告をし、相見積をとらねばならないことを確認する。引越のタイミングなどが決定できずに建て主さんに御迷惑をおかけしている。また、敷地前面道路が狭く、機械が入れないので、解体工事費にも本体工事費にも大きく影響してしまっている。何かいい方法はないものか…。

夜「相見積」で頭が一杯になったままその足で青葉台のジャズバー「オーラパンアジル」にピアノの栗田妙子さんとベースの伊藤啓太さんのデュオを聞きに行った。
年末から栗田さんのメールでそのライブにかける意気込みをお聞きしていたが、その通りすばらしいライブだった。栗田さんが作曲し、一度もリハーサルなしに未知の曲を演奏してしまうという、凡人には考えられないアクトを見せつけられた。

僕もものつくりのはしくれだが、やっぱり生の音楽というのは僕のやっていることの極北に位置してるんだなと実感した。建築をオーケストラに例えたりしてみることもあるが、やっぱり違うな…。ライブは刺身だな、建築はやっぱり生ものではないな、ぬかみそかな、納豆かな、秘伝のタレかな…。

同行した羽田野氏らと4人でワインを4本あけて終電で帰ってきた。こりずに、恵比寿の「光麺」でラーメンを食べた。
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  2004年1月16日(金) 松もとれた
松もとれ、また怒濤のように忙しくなってきた。もうのんきにスケートにはいけない。というか、調子にのって滑りすぎたのか、階段を降りる時に、膝がピキピキと痛い。情けない。

「幡ヶ谷の家」本見積アップ。約2割予算オーバー。調整が必要である。工事の「単価」の修正を求めることと、過剰設計であったところを簡略化することと、建て主さんに「やっぱりいらない」という部分をあげてもらう。3者ともの痛み分けの作業がこれからはじまる。240円のものを200円に下げる、いつものことだがここが重要である。と、自分に言い聞かせ明日の打合せにのぞむ。

『代官山 museum of share spirit』は本日一応引渡したが、まだまだ追加工事や細部の調整が残っている。3月のオープンに向けて最終調整段階だ。
建築家の与える「構成原理」にこれから施主の「固有性」が持ち込まれる。それぞれが気持ちよく対峙することによって緊張感が生まれる。
建築とはそういうもんだ、と思っている。「コラボレーション」という玉虫色の言葉に包んではいけない、あくまでも「対峙」である。

バンタンキャリアスクール新宿出講。修了展に向けて、学生のテンションが上がっている。いいことだ。展示のブースのデザインについて助言させてもらった。脳が活性化されていく感じがする。脳の全てを使って死にたいと思っている。ただそれだけだ。
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  2004年1月15日(木) マッシブデ
朝7時半起床。ゴミ出し、洗濯、掃除を済ませて、8時半に仕事開始。メールのお返事とかで小一時間が過ぎる。どんな仕事においてもきっと「連絡」ということはかなり重要な事である。「get in touch with」という使った事のない英語がよく頭の中をめぐっている。この「連絡」のタイミングと回数をうまくできるようになればかなり「上手に人生を過ごせる」ような気がするが、いつまでたっても実現しない。

学生のときアルバイトをしていた神戸の「北島道夫アトリエ」では、留守番電話もファックスもコピー機も携帯電話もコンピューターもワープロも青焼機も当然電子メールもなかった。台湾製の「コードレス電話」が導入されて所員の吉元さんが自慢げに使っておられたのを今でも憶えている。青焼を焼くのに僕のホンダ「赤カブ」で2駅くらいはなれたお店に通ったような気もする。

もう17、8年前の話しだが、ずいぶんと世の中は便利になった。図面の室名を「はんこ」で捺す時のあの緊張感は一体何だったのか…。「1mmでもゆがんだら、殺される…」と思いながらやっていた。2ヶ月で泣いてバイトを辞めた。給料は手形だった。

こんな話は今の若い人に絶対しない。言ってもしょうがないことだから。

午後バンタンデザイン研究所中目黒へ出講。皆さまざまな模型が出来上がってきたところで、少しすかして、「言葉」のお勉強をした。世の中で使われている「デザインの手法」などについて。

これは最初に言うのでなく、みんな「出来ちゃった」あとに、「実はね」というのがミソである。学生が「ホ−、僕の作品はマッシブデ幾何学的デ貫入シテ非対称だったのか…」とぶつぶつ言っているところがおもしろいのだ。論が先にたつより、やってしまったことに対して自己批評を加える方がいくぶんかおもしろみがある。
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  2004年1月13日(火) ユーヒ
久しぶりに僕の書いた本は今どうなってるんだろう…地下出版物と化しているのか…と心配になって「建てずに死ねるか!建築家住宅」と検索してみた。すると新春早々「ポム企画」さんが関わっている京都のおしゃれ本屋「Sfera Archive」の「お正月向けの読み物」で紹介していただいていた。嬉しい。なんとお礼していいのやら。とりあえずはリンクを張ることでお礼にかえさせていただきます。この前京都に行った時は「Sfera」のあたりを通ったのにうっかり素通りしてしまった。何分、京都に行くと頭の中が「お寺」になってるので、ついつい現代人であることを忘れてしまい、おしゃれスポットを見のがす。今度行った時は立ち寄り、御挨拶をせねば…。

写真は白い塗壁にあたる今日の赤い西日。印刷物でなく建築において「色」の話しはややこしい。朝の陽、昼の陽、夕陽、蛍光灯、白熱灯、ロウソクによって同じものでも可視的には全く違う色をみせる。また真夏の光、正月の光もちがう。東京の光と青森の光も違う。写真をやっている人にはそれがわかる。また人によって好きな光が違う。
「カラーコーディネート」っていう資格や仕事があるが、建築においてそれはどこまで通用するのだろうか…といつも疑問に思う。
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  2004年1月12日(月) 氷上の妖精
朝この冬はじめて日比谷公園に氷が張った。少し仕事をした後、代々木体育館にスケートをしに行った。帰ってきてテレビをつけるとキムタクがアイスホッケーしていた。何やら氷づくしの一日だった。

昨年は「東神奈川スケート」という東欧のような雰囲気を持ったしぶいところへ行ったが、今年はモダニズムの権化「代々木体育館」の中で滑った。
我々「建築ツウ」はこうしてさりげなく、日常の中に「モダニズム」を取り入れることが必要なのかもしれない。

スケート場で顔見知りに会うことはめったにありえないことだ。しかし、広尾の商店街を抜けて、つきあたりのお寺を左に曲がったあたりにある「しもたや」寸前の靴屋のヒッピーみたいなおじさんがスイスイと、おそらくその日のスケート場で一番のスピードをだして滑っていた。かなりショッキングな光景である。
いつもは整理されない「靴の山」の中に埋もれて、おそらく右靴と左靴をさがすのに30分くらいはかかるだろうという乱雑さの中に、一人ポツネンと座って、空をみつめているおじさん…。夏はほとんど服を着ずに、暑さの中でグロッキー状態のおやじさん、何度もその前を通っているがもちろん一人の客もみたことがないようなお店のおじさんが、氷上の妖精のごとく…スイスイと。でもいつもと同じ20年くらい洗っていないだろうチューリップハットをかぶって、なぜかそれで口を押さえながらスイスイと…。

妖精というと普通はかわいい女の子を想像しがちだが、本場アイルランドの妖精はだいたいが「汚くていじわるなおじさん」である。そのイメージがだぶって、まさに「氷上の妖精」の名をほしいままにしていた。

しかし、僕は見のがさなかった。おじさんの「マイ」スケート靴が「ピカピカ」に磨きこまれていたことを…。
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  2004年1月11日(日) 国立劇場
昨日夕刻、国立劇場に「各流派合同新春舞踏大会」を観に行った。『雙徽第(そうきてい)』主人の西大條文一氏が吉村文章という名前で出演されており、「八島」を舞われた。壇ノ浦の合戦の話しだと思う。上方舞、地唄舞の吉村流以外に「花柳」とか「藤間」「板東」といった様々な流派が入り乱れての大会であった。氏は踊りの時は「文章」、お茶の時は「埼風」、舞踏のときは「文阿弥」、たまにふざけて「茶・ゲバラ」と名乗る。もちろん普段はお医者さんで新大久保でHIVを中心とした検査医をされている。

昔は幼名から雅号、僧名などどんどん好きに名前を変転させていた。しかし、いざ自分で考えてみるとこれはなかなか難しいものである。まず最初に「照れ」が生じる。しかし名前がたくさんある人をみていると、何かこう生き生きと人生を謳歌しているように感じられてうらやましい。

※写真は国立劇場でなく「雙徽第」で舞う吉村文章氏

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  2004年1月9日(金) 神主とシャンデリアと私
『世界でいちばん自分らしい家』(扶桑社)というムック本が出ました。OCMの2000年頃の2作「おゆみ野の家」と「検見川の家」が掲載されております。

ところで「ムック」って何なのだろうか?

昨日片野氏と三宿の「グローブ」というブリティッシュアンティーク屋へ行き、シャンデリアやブラケットを一緒に物色した。先日メキシコから戻った片野氏は「バカラのシャンデリアをゲットしてきた!」と鼻息を荒ゲていたので、頭の中がシャンデリア一色になっているようで、「グローブ」のなかで、続々と入荷して吊り下げられていくシャンデリアをみながら息を飲んでいた。

皆さん御存じですか?今超おしゃれピーポーの間ではシャンデリアがすごいことになっているんですよ。でも使い方を間違わないように。キメキメでなく、ちょっと退廃的な雰囲気を出しつつ、没落貴族が、工場のような廃墟の一室で、シャンデリアの光にすこし神経症的な横顔を照らされながら、葉巻きを吸っている、というのが正しいシャンデリアの使い方です。

本日午前、『○築知識』の清水さん来所。『○築知識』は女性の多い職場なのに、なぜか僕のところに取材に来られるのは男性ばかり…。少し気になっていたのでホッとした。
そして「最近の神主さんの労働状況」について、ペラペラとしゃべりまくった。

神主とシャンデリアと私。素敵な小説が書けそうだ…。
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  2004年1月7日(水) レーニン
昨晩は大学の後輩の松田君が新年の挨拶にきた。奇特なやつだ。ただ出社したばかりであまり仕事やるきがなくてふらりと寄ったのだろう。こっちはバリバリに働いているのにのんきなもんだ(笑)。彼は鹿島建設の設計部で働いている。彼の口癖は「おーしまさんはいいですね〜」だ。学生時代からかわらない。いまだになにが「いい」のかわからない。また僕が日建設計に入って高給取りになったとき「おーしまさんは40才ぐらいで、暖炉の前で散弾銃の手入れをしながら、鹿を撃った話とかをしているにちがいない…」と言っていた。25才の時である。僕はなぜか今でもそのことを憶えていて、少なくともそれ以外の何者かになろうと生きている。

連れ合いに「ゴーヤチャンプル」と「株と油揚げと水菜の煮びたし」をつくってもらってふるまい、いいちこ(シルキーの方)のボトルを一本空けた。帰りに「尾道ラーメン」で太麺を食べて値下げした「〆張」を飲んだ。何故か後輩におごってもらった。

彼は最近ますます晩年のレーニンに風貌が似てきている。左図参照。

朝から「蕨の家」のプランニング、毎日考えられる限りの案を抽出している。
夕方『代官山 museum of share spirit』の電飾(ネオンサイン)や、イルミネーションなどについての案をまとめる。
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  2004年1月6日(火) 相原君
写真家の相原核弾頭氏からメールをもらった。彼は最近「渡辺慎一」という気取った名前で活動している(笑)。毎年年末には会って酒を飲むのだが、今年は入院中で会えなかった。病気ではなくて何故か彼は「怪我」でよく入院している。さっそく彼の日記ものぞいてみると僕のことがでていた。下記無断で引用。
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午前中 OCM一級建築士事務所 主宰 大島健二の日記 <酔余漫筆>を病院のベッドで携帯からアクセスして読んだ。
他人の日記はやはり少し気になるもので、読み始めたら2〜3ケ月溯って読破してしまった。
几帳面な性格の彼らしく仕事の内容以外では、鍋をやったりしたら具材を細かく書いたりしているのだが、実はそこが一番面白かった。他の人のWEB日記もよく読む管理人なのだが意外に「食」に関する記述が実は一番面白い。
何を、いつ、どこで、誰と、どのようにして食べたか、そして美味しかったとか不味かったとか・・・という書き込みにその人「らしさ」が滲み出るような気がしてならない。
そして大島健二に「すぐ昔の歴史や格言を用いるのは年寄り臭い」とメールしたら「オヤジだから仕方がない」と返事が来た。(笑)
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そうだ、よく「大島さんは生活感がないですね」って言われるので、はじめはどうでもよい「食」のこととか誰に会ったとか、のんびり書こうと思って「酔余漫筆」って名前つけたはずだ、しかし最近は何と言うか自分で書いてて「この人毎日酒ばかり飲んで大丈夫かしら…」と思われるのが心配で、ちょっと飲食ネタが下降気味になっていた。そこで「格言?」とか入れてちょっと賢いところをみせておいて自分ではバランスをとっているつもりでいたのに「オヤジ臭い」と言われると開き直るしかない。おもしろい「オヤジ」になろうと日々努力していることも確かだし。勘弁してくれ相原君、僕はもう38才なのだ!

拙著「普請道楽のススメ」の写真を彼に頼もうとお願いしたら快く引き受けてくれた。しかしいつ退院するのだろう?かつてのフットワークはまだ健在なのだろうか!皮パンはまだ履いているのだろうか!

※事務所の前のラーメン「あふり」が流行りだした。たぶん雑誌やテレビで宣伝しているのだろう。うすうすのスープで800円くらいする。あまりおすすめできない。よくあるラーメンネタはまた後日。
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  2004年1月5日(月) お年賀
正月が終わった。なんか今年の正月は短かったな。当然その分年末が長かったのだけど。おもわず来年の正月のこよみを確認してしまった。よしよし、来年は長い。

年末年始に「もの書き」の仕事を一気に進ませたので、今日からどっぷり「幡ヶ谷の家」を中心に設計に浸る。

すると、「幡ヶ谷の家」の施主から可愛い子供達の顔や遊んでる姿がコラージュされたすばらしい年賀状が届く。新居になってもみんなの顔がこんな風に明るければ成功だな…と確信する。

そのために詳細、ディテールがある、と言い聞かせ、さて、設計に戻ろう…。
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  2004年1月2日(金) 蟄居
正月も二日になると、体が静かな東京に慣れてくる。そして、少しづつ仕事時間を増やして、昨年から持ち越した仕事への不安を拭い去ろうとしている。やる気がムズムズと沸いてくる。いい仕事をするにはとにかくペースをくずさないこと、リズムをつくること。一度崩れたリズムはなかなか元にはもどらない。

正月なのだから朝まで起きて、スズメのチュンチュン鳴くころに床につく、といったなつかしい学生時代のような生活にもすぐにでも戻れるのだろうが、もうやらない。歴史は夜つくられる?といった言葉があったかどうか忘れたが、しかし夜モノを考えたりするのは僕にとってはよくない。「夜つくられる…」ということもきっと革命か何かの地下的な打合せなのだろう。もうそんな時代ではない。

きっと僕の祖先は農耕民族だったのだろう。狩猟的な山師的な発想がまったくない。何かの積み上げでしかものを考えない。まわりからみれば変な本を書いたり、「雙徽第」や『代官山 museum of share spirit』という不思議な突飛なデザインの建物をやったりしているので、思いきった奴だなと思われているかもしれないが、僕にとっては全て自己内部的予定調和の範疇に納まっている。いいのやら、悪いのやら…。

今年もOCMのObservation Creation Modificationの三本立て、つまり観察や分析による著作、創造的にものをつくる設計作業、そして調節、調停、コンサルティングとしての教育をバランスよくこなしていきたい。かつ我々は限りなく「自己表現」しながらも「サービス業」であることを忘れてはならない、と肝に銘じる。
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  2004年1月1日(木) 日出デテ 海天清シ
お正月には本来「年神さま」「年徳さま」という神様や「ミタマ」「ニダマ」「オヤダマ」という先祖の霊をお迎えする風があります。つまり先祖が正月の神さまになる場合は盆の祭りと近くなります。

年神さまは普通大晦日の晩にお迎えします。門松をたて、年神さまをまつり、神さまの前で夜を明かし、この夜は眠らないことになっていました。
僕はいつも通り12時に床につき眠ってしまったので、年神さまを迎えることができませんでした。大晦日夜中に初詣でに参る元気な若者達や、夜通し走り回る暴走族の方が年神さまにとっては嬉しいのかもしれません。

現在では日がのぼった後のお正月が大事に考えられていますが、本当は大晦日の神迎えや神まつりの謹み深い行事の方が大事だとされていました。

そこで雑煮です。その名の通り「ぞうに」は様々なものをまぜて煮たという意味で、神様へのお供えのおさがりをいただくということなのです。九州では「ノーレイ」といい、つまり「直会(なおらい)」がという言い方になります。そう、地鎮祭の後神様に供えたお酒をみなでいただくことと意味は同じです。

シメ縄は本来正月に食べる食べ物を土間につるしておいたことがはじまりだと思われます。僕の場合なら、サトウの切り餅や、ちくわ、パン、などをぶら下げねばなりません、困った…。

さて、大晦日からお正月にかけてやけに「お笑い番組」が多くて辟易しているあなたに朗報。漫才は昔は万歳といい、仕事ハジメと関係しています。お正月に庭で各家が田植えのモノマネをすることからはじまり、やがてそれを専門として家々をまわり「モノマネ」をして祝福してまわる人々があらわれました。明治時代にも、奈良県から京都のお公家さんのところへお祝にいっていたという万歳があるとききます。奈良県といえば明石家さんま、もしかしたらそんなめでたい血筋が残っているのかもしれません。

やがてそれらは田楽、猿楽、能楽という風に枝別れし独自の発展をみせました。

この大晦日は「格闘技」でテレビが大変なことになっていましたが、あれも年神さまに奉納しているのだと思えばすばらしく祝賀的な感じがしてきます。

出典『ふるさとの生活』宮本常一(講談社学術文庫)

写真は渋谷の氷川神社の獅子舞です
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