2003年11月
| 2003年11月30日(日) | |
 | 久しぶりの二日酔い。風呂に入って頭をすっきりさせ14:00「六角橋の家」の現場に向かう。施主さんと塗装やこまかな造作などについての打ち合わせ。女子高生の娘さんも来られていた。工事が遅れ気味で心配だが、監督に奮起を促す。
夕刻より恵比寿の「site」というギャラリーで渋谷奈緒さんという若いアーティストの個展が開かれているのでみに行く。どんよりとした天気で気分がさえない時は良い美術作品でもみて、心を開くに限る。鉛色の空に一輪の花を咲かすことができたなら、一日しあわせな気分になれる。
その後ギャラリーオーナーの斉藤康と恵比寿の「香り家」という蕎麦屋に飲みにいき、アートや建築について語り合う。ビールと焼酎をほどほどに飲み、鴨汁そばを食べる。帰って世界遺産をみて床につく。
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| 2003年11月29日(土) | |
昼、マトリョーシカというロシア料理屋でボルシチを食べてどんよりとした天気で冷えきった体をあたためる。昔からロシアには親近感がある。アメリカより近い隣の国なのになぜかニッポン人にとっては遠い国になってしまっているのが残念に思ッている。
15:00「幡ヶ谷の家」打ち合わせ、御自宅へおうかがいする。実施設計の途中経過の説明などなど。年明けには引越し、解体がはじまる旨をつたえると、いやがおうにも「いよいよか」といった雰囲気にみたされる。設計というフィクションから工事というリアルな局面に移行していくことになり、建て替えの場合、施主さんにとってはとても忙しく、頭の痛い時期となる。
夜、「広尾の家」へ「普請道楽のススメ」の説明とインタビューに行く。赤ワイン(ボルドー)と生ハムを持参。施主を紹介してくれた共通の友人であるインテリアデザイナーの山田健一郎にも来てもらい三人でおおいにもりあがる。一応インタビューしたい項目にしたがってしゃべってもらったが当然話しはどんどん横道にそれる。家に帰ってから聞き直したが酔っぱらい三人の会話をテープで聞き直すというのはなんとも地獄の沙汰である。しかもおもしろい話しはほとんど「ピー」がはいるので残念でならない。正月休みはひとりでこれを聞きながら文章に起こさねばならないと思うと、苦笑いするしかない。
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| 2003年11月28日(金) | |
 | 午後バンタン新宿校に出講。第7回目の授業。だいぶ「煮詰まッてきた」。ここから先は難しいことを言わず「行け行けどんどん」状態。もう後には戻れない、自分の思い付いてしまったアイデアをいかにうまくプレゼンテーションするかに的を絞ッていく。プレゼンテーション(グラフィカルな)能力は、業界が若者に求めている能力のうちの一つ。どんなつまらないものでも「魅力的な商品」にしあげていく能力。ほどが過ぎると、インチキ臭くて詐欺師と呼ばれる…。やはり実直な、心の底からこみあげてくるプレゼンテーションが必要だと説く。建築だけでなく、どんな業界でも企画書の構成、ページネーション?章立てが重要だと説く。それがすばやくできれば「デキルやつ!」と言われる。自分が何に感動しなぜ感動したのかを分析すること、それを裏返せばプレゼンテーションの戦略になる。つまりは、感動したことない人間は、人を感動させることはできない。しかし、それもほどが過ぎると逆に人々の感動を呼ぶ、「ニヒルな人ね」「どこか陰があってしぶ〜い」…。しかし、さすがにニヒルなプレゼンテーションはないし、陰のあるプレゼンテーションもいやだなぁ。 |
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| 2003年11月27日(木) | |
建築家石山修武の世田谷村日記より 「細々とこの世田谷村日記を書き続けて解った事が幾つもあるが、一つはメモを続けていると、次第にどうしても内省的になってゆき、瞬発力が出現する回数が減少してしまうのではないか、と不安になる。要するに下らぬ思いつきが妄想との類との親密度が薄れてくるきらいがある。」
「酔余漫筆」をはじめて一ヶ月がたつが、どうなのだろうか。まだ石山サンのような感想は生まれてこないが。様々な人々や社会との関係性によって成立している建築家という職業にとって、むしろ内省的でいることが今の自分にとっては重要なことのように思うのだが、このまま内省的でい続けると良くないのだろうか。そんなこともないだろう。「批判と内省と創造」は常に粛々ととりおこなわれなければならない。
「六角橋の家」の工務店より、「ボード貼り業者がつぶれてしまったので、少し工期をのばしてもらいたい云々」と、冗談ではない。そんな「寝坊したので遅刻しました」的な学生みたいな理屈が社会で通用すると思っているのだろうか。ボード貼り(GL貼り)業者なんて関東にいくらでもいる。瞬時に職人をかきあつめられない工務店の能力のなさを露呈しているにすぎない。そんな話を現場から持ち帰ったうちのスタッフも叱り飛ばした。「誰にお金もらって仕事してんだ!御施主さんだろ!我々は工務店のために仕事してるわけじゃないんだ!」と。そんな当たり前のことも現場に通っていると忘れがちである。
と、今日は内省的でない状態、阿修羅の状態で一日が終わってしまった。 | |
| 2003年11月26日(水) | |
一日中、事務所にて作業。しかし昼、こわれてしまったコンピューター(i-mac)
を渋谷のクイックガレージに持ち込む。ロジックボードか「なんとかかんとか」が壊れている可能性があるので最低でも4〜5万円の修理代がかかりますがいかがいたしましょう?と問われた。4〜5万円?中古のi-macなら買えそうだ。悩んだ末、コンピューターの台数は足りているので修理せず持ち帰ることにした。台数が足りなくなった時また直すことにしよう。
コンピューターや携帯電話が「好き」になれないのは、明らかに消耗品であることを指向してつくられているからだ。もちろんソフトの供給に関しても同じだ。「一生もののコンピューターです!」というのは聞いたことがない。せめてテレビと同じくらいの寿命を持たせてもらいたと思うのだが、だめなのだろうか。テレビだってそこそこ寿命があるのに、テレビ売場はいつも新製品であふれている。昔のテレビが電波が変わったので使えなくなったという話しは聞いたことがない。(今後デジタル云々でそうなる可能性もあるらしいが…)
ソフトなんてヴァ−ジョンアップしなくても良い。もう十分すぎるほど便利になっている。図面もかけるし、本もかける、写真もプリントできるし、インターネットもでき、おまけに日記まで書ける。しかし社会はつねに「右肩あがり」を指向せねばならないらしいので、破滅、倒産するまで成長を希求しつづける。
ぼく自身はマックのG4を使っているが、つい最近までDVDがみられる機能がついているのをしらなかった。ぼくにとってはDVDよりも壊れないということの方が価値が高い。
ベスパには5万円の修理代払えるが、マックには払えない。そういうお話でした。 | |
| 2003年11月25日(火) | |
午後、雨の中『代官山 museum of share spirit』の現場。施主の奥さんのお父さんがはるばる熊本から見にこられていた。建築は直接的にも間接的にも様々な人々の熱い期待の上に成立しているのだなぁということをつくづく考えさせられる。
15:00、○○出版の○○さんがこられ、○○シリーズの「○○史」についての本の執筆の依頼をうけた。とても重責だが、これも様々なことにケリをつけて不惑を迎えるための修行のひとつだと思い、快く引き受けた。2003年はとっぷり「建築ツウ」にひたって、随筆的に建築を総覧したが、2004年はもう少し平易で的確な語り口で○○史を記述することになりそうだ。
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| 2003年11月24日(月) | |
 | 上野の「旧岩崎邸」に行った。初冬独特の気持ちの良い日。空気がリンと引き締まッている。明治10年に来日したコンドルがお雇い建築家時代を終えて20年後民間の仕事を中心に活躍しはじめた時代の作品。全てのスケールが大きすぎて、ちょっとした町役場くらいの大きさがあって、かわいらしさや親近感はなかったが、随所に建築に対する熱い情熱を感じ取ることができた。近代洋風建築をニッポンという一国における「はしか」のようなものとしてとらえるのか、それとも今は押し込められているが、ニッポン人の潜在的な欲求としてとらえるか、今もう一度考え直さねばならない。
「旧岩崎邸」の洋館部分と和館部分、そして背後のモダニズム建築が混在しているこの写真に、僕は違和感を覚えない。むしろそこにニッポンを感じ、これからの建築のあるべき姿が示されていると思う。
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| 2003年11月23日(日) | |
 | 3年前くらいに、セルフビルドでインテリアをやった代官山の「ぺル・ウナ・カリーナ」というお店の玄関扉の戸当たりがとれたというので修理にいった。建築家が大工道具をもって「修理に来ました〜」といって直して帰っていく。インテリアであるからできることだが、なかなか気持ちが良い。
「建築家のあがり方」の一つに、修理専門の旅大工になって、全国の自分の建てた家を歩いてまわり托鉢のような生活を送る、というのが僕の頭の中にある。ミースのように高層マンション、オフィスをビジネスライクにこなして建築家を終えるやりかたとは違う、とってもニッポン的な建築家の終え方。もう世代が交代していて孫の代になっていて「この汚い乞食は誰!」と大騒ぎになり、事情をよく聞くとその家を設計した建築家だという。中に入れて風呂を浴びさせ、暖かい食事でもてなされて、設計当時の思い出話しを孫達に聞かせる…。しかし、家によっては「お前の顔なんかみたくもない!」と門前払いを受ける。やむなく家の前の落葉の掃除だけして、頭を垂れ、次の地へと向かう…。
短編小説ならできそうだ。 | |
| 2003年11月22日(土) ミース | |
今日は明治大学の田路先生の誘いを受けて「建築論の現在」というシンポジウムに参加しようと御茶の水の明治大学に出かけたが、日を間違えたらしく別のシンポジウムをやっていた。「ポストモダン後の建築とミースの建築デザイン」というシンポジウムだったが幸い田路助教授もパネラーとして参加しておられたので、快く拝聴させていただいた。ミースの晩年に直接指導を受けた経験をもちその後S.O.M.にて主任建築家として活躍された高山正實さんが、ミースについてのスライドレクチャーを行い、それに内田祥哉さんがからむといった感じの内容だった。お二人とも70才を超えられているがかくしゃくとしており、一抹の疑問点などを残しながらもやっぱり年配の話しには耳を傾けなければいけないなと感じさせられた。高山氏はバルセロナパビリオンやファンズワース邸を通した一般的なミース像でなく、最晩年の氏曰く「工学的ソリューション」僕的に言い換えれば「ビジネス的ソリューション」の部分のみを取り上げてミース像を浮き上がらせており、完璧といわれているプロポーションの美学などはミースにとってはどうでもいいことであり、彼は予算がない時は平気で建物を10%縮めたりしていた、と暴露的な発言をし、大いに聴衆の好奇を満たしていた。
田路助教授はミースのそんなアメリカ的な部分には興味がなく、ヨーロッパ時代の初期のドローイングなどについて注釈され、彼の表層への意識の高さについて注意を促していた。
高山氏が指摘されているミースは60才から70才にかけてのミースであり、田路氏の指摘されているミースはちょうど僕と同じ年頃、30代後半のミースである。どちらが本当のミース像であるかということには当然意味がない。どうちらもミースだし、逆に30年も経てば違う人間になるという言い方もできる。むしろ、建築家の「あがり方」として探った方がより人間的でおもしろいような気がする。もちろんアカデミズムに媚びず「生を謳歌した」ル・コルビュジェとの比較も有効だ。抒情的な僕には終生ホテル住まいで孤独に一生を終えた一人の建築家ミースといった観点が一番好きだ。映画化するならおそらくそれが基軸になることだろう。
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| 2003年11月21日(金) 建築系消化器 | |
 | 実は今「未来日記」状態である。つまり21日の日記を20日にかいている。まあいいか…更新過剰状態なんて言葉はあるのだろうか。バンタン中目黒の授業を終えて帰って来たところ、4時間しゃべりまくったので、つまりはテンションが高いのだ。今回は「9坪ハウス」2回目の授業で各自エスキスを発表させた。合計20人。いくつか興味深い発表があった。
「崩壊したコミュニティーを再生したい、皆が集まる場所を…」 それに対して講師曰く「なぜ崩壊したのか?まずはそれをしっかり考えること。若奥さんの公園デビューといった現象をどうかんがえるのか」など。
「9坪のキューブの空間にいくつかの小さなキューブを吊るします」 講師曰く「おもしろい、しかし吊るすとどんないいことがあるのか、もっと論理的な、へ理屈でもかまわないから人を納得させられるような説明をすること」などなど。
「音には記憶がからみついてます、そんな空間と映像を交えた住居…」 講師曰く「御意、しかし最終的に音がからみついた空間をどうプレゼンテーションするのか、その方法論が確立できなければやっても意味がない。映像も同じ。むしろ音にこだわらず記憶の保存装置としての住居を提案してはどうだ」などなど。
「食事、料理を中心にした生活、みんなでつくって食べるとおいしい。お日さまがサンサンとあたる空間で…」 講師曰く「お日さまサンサンだと食材の腐敗の進行を速める。本当の料理人はうす暗い寒い土間で最高の料理をつくる。お日さまの下で料理をするというのは一部のプチブルアメリカ人に与えられた唯一の人のもてなし方、つまりバーベキューだけだ」などなど。
禅問答のような時間が続く、大喜利といっても良い。しかし、18.19才の学生は食い入るように聞き入っている。学級崩壊などと世間は騒いでいるが、ここではあまり関係ないみたいだ。
設計すること、本を書くこと、学校で教えること。方法論は違えど、地道ではあるがすべて訴えていることは同じだと考えてる。丁寧に丁寧に対話しながら何かが変わっていくこと、もしくは変わりすぎていくことに歯止めをかけることをやっている感じだ。
本当の21日。15:00より『代官山 museum of share spirit』にて打ち合わせ。一年の間にどんどんデザインモチーフがダイナミックに変転していく。それはファッションデザイナーである施主としては当然のこと。だって彼の頭の中はもう来年の春夏コレクションなんだもの。バリ、マヤ、モロッコ、歌磨呂、ラリック、クラシック、バロックそして今はインダストリアルという言葉が打ち合わせの中で飛び交っている。建築家=建築はそれをうわばみのように飲み込んでいかねばならない。僕の胃腸は弱いが、建築系消化器が頑強なのは確実に自慢できる。
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| 2003年11月20日(木) | |
 | 以前ジャズピアニストの栗田妙子さんという人からメールをいただいた。YKKか何かのホームページに記載されていた短い僕の文章に感動していただいたというメールだった。栗田さんは特にこれから「家を建てる」という人ではないのだがそういう人から「純粋」に「応援メール」をいただけると何かこう、やっててよかったな…と思わされる。そして CDを送っていただき爽やかに拝聴させていただいた。しかし、その感想として「こう何というかもっとドロドロとしたジャズの方が好きだ」と失礼なしかし正直なコメントをしてしまい、しばらくメールがなかったので気を悪くされていたのかと心配していたら、先日メールをいただいた(まだお返事してません)。1月17日(土)青葉台の「オー・ラパン・アジル」というところで20:00からピアノとベースのデュオのライヴがあるという。是非みなさん行きましょう!かつ、栗田さんは奇特にも「酔余漫筆」を読んでいただいてるという。日記系WEB-SITEははまると中毒になりますが、是非はまっていただけるよう、力を抜いた文章を心掛けがんばります。これからは音楽の話しも交えていきます。
ちなみに僕は建築家の難波さん石山さんの日記以外に、「建築知識」編集長の「ふぁいと一発」にもはまっている。なかなか更新されなくて残念な日々がつづいていたが、どうやら更正されたようで、「更新率アップ宣言」を昨日されていた。「奇特」な読者の一人として毎日が楽しみだ。
「酔余漫筆」の画像アップ度が上がったのは他でもない、カメラを買ったからだ。ポラロイド230というシンプルな名前のカメラ。普段現場監理などの仕事にはオリンパスのCAMEDIAを使っており、これは非常に性能が良く手放せない。一方ポラロイドの方は普通のデジタル人間であれば怒り狂いそうな画像の悪さがポイント。しかも、シャッターのレスポンスも悪いので、そうとうしっかりとらないとボケる。ボケなくても、色が「昔の写真」のように淡い、なぜか色褪せている。しかし、なんでも鮮明に明確に映ってしまう情報機器が溢れる昨今、だんだんこのポラロイドのボケ具合が気に入りはじめた。ビックカメラには陳列してあるが、なんと値段の表記だけでスペックが一切書かれていない。店員に「どうですかねえ、これ」ときいても「いやあのその…」と言葉を濁す。そんな商品最近めったにない。きっとそのうち「名機」「珍機」の誉れをいただくに違いないとみた。そういうモノはなぜか「よ〜し、よ〜し」と愛したくなる。使えない過剰なスペックをあまらせておくよりも、お尻を叩いて、ひぃ〜ひぃ〜言わせながら使うのが正しい人間と機械との関係のような気がする。建築もまた然り。セ・ラ・ヴィ。
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| 2003年11月19日(水) ススキ | |
 | 朝から「小岩の家」現場。1階の筋交い及び金物、束、根太、大引き完了。4寸角柱のホールダウン金物のボルトが3.5寸角柱用のもので短かったので修正を指示。屋根の断熱材、通気胴縁及びトップライト周辺の通気の抜け道などを確認。鋼板屋根は一部瓦棒葺きでなく平葺きにしたほうが納まりが良いということで了承した。「本八幡の家」と同じ大畑工務店に施工をお願いしているので、2回めの仕事ということでスムーズに事が運ぶ。仕事のスピードもアップしてきた。
先週通った「親水の緑道」が工事中だったので、がっかりした野良猫のような気分になり、帰りは旧江戸川沿いに駅まで歩いた。ススキや葦?が穂を垂れ、陽に黄金色に輝きたる様、故郷の加古川の河原の風景に似たり。駅近くの支那そば「なるとや」でラーメンを食べる。「なるとや」という屋号だが、「なると」は入っていなかった。主人は鳴門市の出身なのだろうか?鳴門市の市章は渦巻きのマークであることをふと思い出した。中国のことを「支那」と言ってはいけないと聞いたことがあるが「支那そば」は大丈夫なのだろうか。シナ合板、椎名、シーナ&ザ・ロケッツ……。ニッポン人の好きな「音」の一つには違いない。
昨日「六角橋の家」の施主より電話があり、現在工事中の高校生の娘さんの部屋を横浜のあるお店の壁仕上げみたいにしてほしいと娘さんが言っているというので、スタッフに調べに行かせた。うん、主張があるのはいいことだ。「この壁ね、私がこうしてって言ったのよ」と自慢げに友達に言えるということはいいことだ。
これから「小岩の家」の監理報告書作成。そして「幡ヶ谷の家」の実施設計をやる。天気が良いと気分も良い。 |
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| 2003年11月18日(火) コンドル | |
 | 一日中事務所で作業。「幡ヶ谷の家」実施設計図チェックなど。年内になんとか実施設計をかたちにしなければならない。夕方、「雙徽第」の設計、現場監理時における施主とのやりとりの記録(主にファックス)を整理してみた。その膨大な量と「質」にあらためてびっくりする。その一部は本に紹介できるにしても、何らかの形で、施主へ「アーカイブ」として渡さねばならない。そして「雙徽第」に代々、その息吹を伝えていかねばならない。竣工後一年が経ったのに、まだまだ「雙徽第」はうごめいている。
整理していて「旧岩崎邸」の資料がでてきて急に行きたくなった。明治29年の空気を吸いたくなった。ジョサイア・コンドルと話したくなった。今宵は、先日買った明治30年の東京一目新図を酒の肴にしよう…。
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| 2003年11月17日(月) | |
 | 今日は晴れているがまた寒くなった。午前中は、「普請道楽のススメ」の作戦をいろいろ練る。昼は昨晩の水炊きの残りでうどんをつくり食べる。午後から『代官山 museum
of share spirit』の現場へスクーターで向かう。現場でばったり海外出張から帰って来たばかりの片野氏に会う。いくつか確認をしたあと、片野氏は現場をあとにした。外壁の大谷石貼りがすすみ、内部のモールディングもとりつき雰囲気がでてきた。
ちなみに「張り」と「貼り」の違いに昔はいちいち悩んでいたが、現在はノリのようなもので全部密着させてハル場合は「貼る」、太鼓のように空間をあけてハル場合は「張る」と使い分けようと思っているが、ふすま貼りや障子貼りは空間があいているが字面的には「張り」ではなく「貼り」の方がふさわしいように感じる。そもそもニッポン語は「音」の文化だと勝手に考えているので、漢字を当てるのに悩んでもしかたがない。僕の「大島」という名字もあやしい。単純に「大きい島」と思いたいところだが、なぜか海のない栃木県に多い名字だ。かつ、大志万(おおしまん)という名字もあるし、料亭などで大志満とかいて「おおしま」と読ませるのもある。
奥が深くて絶対に結論がでないようなことをあ〜だこ〜だと考えるのは楽しい。もちろん「建築」もその最たるもの。 |
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| 2003年11月16日(日) こがらし | |
 | 気温が高く、春のようなあたたかさ。しかし、こがらしが吹いたという。スクーターで散歩に出る。中目黒の古書店「たらの芽書店」にて『煎茶志』長谷川瀟々居(平凡社)を購入。煎茶の資料は少ないのであれば買っておこうと思っている。
下北沢まで足をのばし、沖縄そばを食べて帰ってきた。 | |
| 2003年11月15日(土) | |
 | 昼、スパゲティーをトマトソースで食べる。美味也。たまに自分は天才ではないかと思うことがあるが、もちろんそれは思いあがりにすぎない。
3時、デザイナーの松永路が事務所にやってきて、「建築ツウへの道」の装丁等について打ち合わせ。写真を使った新しい案がでていた。5時から六本木のエクスナレッジ社へ行き「建築知識」編集長の大菅氏にプレゼンテーションをする。基本的には松永さんにプレゼンテーションをお任せしたが、こういったプレゼンテーションは建築とは違うのでなかなか緊張する。編集長はフムフムと聞いているが、いいのか悪いのかがとても気になってしまう。しかし、概ね方針は決まり、3册目の建築ツウ的「普請道楽のススメ」も来春に同時発売するということを確認する。その方向性もこちらの提案をほぼ受け入れていただいた。「最も役に立たない施主本」という裏コンセプトが光っている。
首尾よくプレゼンテーションは終了し、そのまま六本木の「ささの酒呑」という小洒落た居酒屋でぶりかまの塩焼きなどを食しながら、焼酎をしこたま呑んだ。ぼくはちょっと用事が発生したので先に失礼したが、編集長と松永さんは呑み足りなかったらしく、夜の六本木の街に消えていった。
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| 2003年11月14日(金) | |
 | 朝8時半起床。寒くなるにつれて体のうごきが緩慢になっていく今日このごろ。窓を開けて相模湾でも広がれば、この日々の季節のうつろひを蘆花のような文章で表現することもできるのだろうがここは恵比寿。窓をあければ向いのビルの工事現場がみえ、勝手に他人の現場の進捗状況を気にしてしまう。
メールをチェックすると懐かしい人から便りがきていた。今は難波和彦の事務所で働いているという。久しぶりなので会おう、とメールをかえした。 「建築ツウへの道」の年号のチェック作業をしていると、事務所の外でカン高い声が聞こえる。ベランダからのぞくとダウンタウンのはまちゃんとロンブーのあつしが路上でヴァラエティー番組の撮影をしていた。朝から大声だして大変だなあ〜。午後から新宿バンタンに出講なので、ぼくも大声出さねばならない。風邪気味でのどが痛く、昨晩はショウガ汁を飲んだ。がんばろう。
午後新宿バンタン出講。とうとう声がえらいことになった。夜は斉藤康の誕生会と称して恵比寿の「さざんか」にて寄せ鍋と焼酎。斉藤康は集合住宅を妹島和世さんに建ててもらった人で、建築についての造詣も深い。最近テレビで石山修武をみて感動したといっており、ぼくと石山さんの対談が実現することを勝手に期待している。今度世田谷村をこっそりのぞきに行こうということになった。
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| 2003年11月13日(木) | |
朝8時起床。9時より仕事。「建築ツウへの道」の中で雙徽第の主人に御登場いただいている部分があるので、許可?チェック?をお願いしていた部分のお返事が昨晩ファックスで届いたのでさっそく修正する。そして「小岩の家」の監理報告書を作成し、一部メールで送信。そして午後からのバンタンデザイン研究所の初出講に備えて資料の作成、本日の授業のイメージを頭の中にわかせる。何才になっても予習復習は重要である。「9坪ハウス」事務局より葉書が届く。目黒の「CLASKA」にて29日にシンポジウムをやるらしい。なぜか五十嵐太郎氏が参加している。この人はどこにでも顔を出す人だなあ、かなり消耗、磨耗してるのではなかろうか、人事ながら心配だ。どんな仕事であれ、適度にヒマな方が密度の濃い、気持ちのこもった仕事ができると思うのだがいかがだろうか…。10頼まれれば最低でも12.3は出さねばプロとして失格だろう。五十嵐氏は驚くほどに博学だが、その文章は的確で空気が濃い、早口しかも内省のないモノローグ…といった印象を受ける。別に悪い意味ではない。ぼくは絶対そんな文章書けないという単なる嫉妬。
午後より、中目黒バンタンに出講。計8回の授業の初日。学生達とはじめて顔をあわせる。夏季課題のスケッチを発表しつつ自己紹介を兼ねた。なかなかみなしっかりとものを考えている感じがした。地に足がついている感じ。しかし特徴的だったのは、「便所」を一番気持ちのよい空間として20人中4人もスケッチしていたこと…。一人になってズボンを下ろし排泄するということが、今の生活の中では本当の自分に戻れる、リアルな自分を感じることのできる重要な空間になっているらしい。彼らは特にふざけているわけではない。その他気になったことは、何かこう「大空間」を描いている学生がほとんどいなかったこと。そんなところで生活したこともないし、そんなところが落ち着くとも考えていない。正解ではあろうが、本当に現実指向だなといった感じがした。地に足がついているといえばいい言い方だが、こうなんというか講師の手に追えないような誇大妄想的なスケッチがあまりみられなかったのは残念かもしれない。ほとんどが18才〜20代前半。その一時期くらい「ぶっとんだ発想」をしてみてもいいのになあ〜。ほとんどが1980年代生まれである。若い人の考え方を真面目に聞くということは、とても貴重な経験だし、建築、空間、社会、ニッポンを考える上では非常に重要なことである。彼らを応援したい。
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| 2003年11月12日(水) 転合庵 | |
 | 朝8時半起床。午前中、「小岩の家」の図面とにらめっこして外壁通気の注意箇所や台所配管などについての問題点を抽出。午後より小岩に向かう。電車の中で読もうと「西行物語」を携えて行ったが天気がよくて車中居眠りをむさぼる。現場は全日の雨によって基礎に水がたまってしまっていた。「かいだしといて!」と一言いうのは簡単だが、自分でちり取りで基礎の水をかいだした。全部かい出すのに30分ほどかかった。大工さんや監督からすれば「あれま〜設計士さんわりぃ〜ね〜」といったかんじだろうし、明らかにスタンドプレイで悪く言えば当てつけがましい行為かもしれないが、それで良い。ぜんぜん当てつけではない。もう、口できびしく言うのは「飽きた」といった感じかな。言えないのではない、言えるけどいわず自分でやってみせる、たぶん言葉で怒られるよりそのほうが「恐い」に違いない。現場の士気を高めるにはそれぐらいやらないと、いや、やりすぎるということはない。
3時になって「おーい、設計士さん、お茶にしようや〜」と2階から大工さんの声。お茶をして、2階の筋交い金物のチェックをして現場を後にする。
帰り道、いつもと違う路を通った。小さな親水の緑道、昔小岩が田園地帯だったころの用水路を復元したらしいが、なんとも小さくてかわいらしくて気持ちが良かった。全長800mほどを全部歩いた。ふと、先日三軒茶屋の釣り堀へ行ったことを思い出した。ビギナーズラックでけっこう大小交えたコイ?金魚?が釣れたが、持って帰りますか? ときかれて「いや、いいです」と断ってしまった。あのときの魚はこういうところに放してやれば良いのだなと思った。恵比寿周辺にそんなところあったかなと考えたが思い浮かばなかった。むしろ鯉ヘルペスのことを思い出し悲しくなった。
ついでに別の商店街を歩いて古本屋を発見。名前は「どですか書店」。黒沢明監督の映画に「どですかでん」ってのがあったが、関係あるのかな…観てないけど。そこで、「幻の茶室転合庵」小堀宗通(村松書館)を1200円で買った。著者のサインまで入っていた。小堀遠州流15世家元の書なのでもしかしたら貴重かもしれない…などと下世話なことを考えつつ、帰りの電車の中で目を通した。なるほど、堀口捨巳もどうやら一枚かんでいるようだ…。先週「雙徽第」主人の含翠さんが京都の孤篷庵忘筌をみてきて「遠州の茶室はだいたいわかってきましたわぁ〜」とおっしゃってたので、今度お会いしたら「転合庵って知ってますぅ?」と話しを振ってみよう。
とりあえず今晩は「転合庵」を肴に晩酌でもするか…。 | |
| 2003年11月11日(火) | |
 | 朝から「雙徽第」にて「渡辺篤志の建もの探訪」の撮影があるので雨の中武蔵野方面へ向かった。以前「検見川の家」(千葉金子邸)でもお世話になったので、少し遅めに行って一度は渡辺さんに挨拶しておこうと思ったのだが、第に着くと撮影の真っ最中で、渡辺篤志と含翠サンの厚いトークバトルが繰り広げられていた。脇でうろうろニヤニヤしているとADの人に「映りますので地下室へ行って下さい」と言われ、そのまま撮影の終わるまで2時間ほど地下室に「軟禁」「幽閉」されてしまった。先だってお茶の先生とお手伝いさん、そしてCGデザイナーの佐藤ノブヤさんがすでに軟禁されていた。やっと撮影が終わったと思しき頃、含翠さんよりメールがあり「どこにいるのですか?」と。同じ第内でのメールのやりとりもまあ、めずらしいことだろうが、やっと含翠サンに「軟禁」の労をねぎらっていただき、渡辺さんと一緒に記念撮影していただいた。テレビ朝日のスタッフいわく「渡辺はいつもの3倍くらい喋ってましたね」と。設計者としてはまことに嬉しいかぎりである。
渡辺さんが帰られたあとは含翠サン単独での撮影、天響楼のオルガンで「トッカータとフーガ」を奏で、岳潜の舞台にて「八島」を舞い、同仁斎にて煎茶を振るまい、チェンバロでバロックを弾き、忍者扉でくるりと一回転…。まるでアイドルのグラビア撮影のようなかんじでおもしろかった。
もしかしたら渡辺さんと会話できるかもしれないと思い、昨晩は陶淵明を読みながら眠り、行きの電車の中では徳富蘆花の「自然と人生」の晩秋について書かれたところばかりをひろって読んだが役にたたなかった。
今日はみているだけの一日であったが、自分の設計した建物がこんなに大勢の人々によってあ〜だこ〜だ言われても、自分の中に何も「エクスキューズ」のない感じはとても気持ちよい。
せっかく盧花の文章が頭の中に染みわたっていたので記しておく。 「今日は時雨の日なり…中略…日は薄絹につつまれたる様に光薄く、山茫と打けぶり、落葉勝なる木々は打しめり、空気はうつとりとして重し。恰も春陰に似たり。ただ寂しきのみ。」 時雨の日 蘆花
※ちなみに放映は12月20日の予定です。 | |
| 2003年11月10日(月) | |
土日はコンピューターの前に座ることが少ないので、この日記は「さぼられる」傾向がみられはじめた。まあいいか。朝起きて、仕事はじめの脳と指の神経回路の接続を確かめるウォーミングアップみたいなものと位置付けよう。難波さんみたいにモバイルPCは持ってないし、今のところその必要もなかろう。
東大教授建築史家の鈴木博之の「都市のかなしみ--建築百年のかたち--」(中央公論新社)を読んだ。石山修武や難波和彦の日記上でも話題にのぼっていて気になっていた。 「むしろ、建築の個性を形成する表情を、装飾という言葉を手掛かりにしながら追い求めてみるほうが、豊かな本質に行き当たりそうである。」というくだりは、難しいことだが慎重に、もしくは大仰にやっていかねばならないことだと感じた。しかし、
「しかし、装飾が成立するには、社会に共有された世界観的前提が必要である。それのない時代は、装飾を生み出し得ない。つまり装飾は、その意味と価値を共有する集団があってはじめて、存在できるからである。それのないところでは、装飾は意味のない模様、あるいはガラクタの域を脱することができない。」と誠に厳しい発言をしている。これではやはり、「昔は良い、今はだめ」という懐古主義と言われてもしかたない。鈴木はものをつくらぬ人間だからそれでよいのだろうか。建築史家でありながら建築家でもある藤森照信だともう少し違った言い方になると期待したい。今のニッポンに「社会に共有された世界観的前提」などあろうか?拝金主義か?資本主義の末路の姿か?それがなければなければひたすら四角い箱を生産しつづけなければならないのか?むしろニッポンには「『社会に共有された世界観的前提』のない世界観」があるということが特徴的ではないのか。
また論文、著作についても新たなメンタリティーを発見できた。たぶん僕が知らなかっただけだと思うが。建築家が雑誌に寄稿する文章がつまらないのは、すべて「近代的論文のアカデミック・スタンダード」に準じているからである。おもしろかったり、「私は…」という言葉を使えば厳密には論文ではなくなるらしい。ひたすら、その面白くない文章を書き散らして、本にまとめて「ツーブックス」つまり、本を2冊出せば大学での研究職にありつけるという。鈴木はそれが良いことだとは言ってなくて、「都市のかなしみ--建築百年のかたち--」も基本的には随筆である。が、やはり論文くささは抜け切らない。ところどころで、「自分は散歩しているときに何も考えていない」とか、ほっとするような、気の弛んだ感じの文章があるが、あれはよい。結局、事実を並べてあったり、事実に対する批判で終わるものは「フツーの退屈な建築書」としかいいようがない。
「近代的論文のアカデミック・スタンダードと、それ以前の『物語的』『随筆的』論考の精神との共存があってよいのではないかというのが、これからの建築史を考えていた年長組の、そのときの即時的感想だった。」
その通りです。年長組がしっかりとそのことを認識していただかなくては、僕たちの前に路はありません。かつ、それは歴史的建造物の保存を民衆の気持ちの奥底から沸き立たせるための唯一の方法論であると思う。
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| 2003年11月9日(日) | |
今日は休み。昼からスクターで外に出るが、雨が降ってきたの六本木でハンバーガーを食べて戻って来た。昨日古道具屋で、燗用の南部鉄瓶と灰皿をかった。空焚きをしてしまったのが悪かったのか、内部の塗装?の匂いが出てしまって酒がまずい。何かを失敗したのだなぁ…。
夜は水炊きと成城石井のオリジナル酒「星醸」を飲む。熱燗はあきらめ、冷やで飲む。ハクサイ、豚、しいたけ、しらたき、がんもをたらふく昆布ポン酢で食べ、本を読んで寝た。
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| 2003年11月7日(金) | |
昨晩は恵比寿東口の奇跡と勝手に呼んでいる「鳥安」という居酒屋へいった。おそらく夫婦とおぼしき二人でやっている居酒屋。インチキ業界用語でいうと、今死滅しつつある「オーナーシェフ」の店だ。誰に対してお金を払っているのかがはっきりしていることは気持ちよい、顔の見えないオーナーに上納金が流れていくのはやはり癪だ。吉野家のようなマンモスチェーンになれば「国民食」的様相を醸し出しているので許せる。が税金対策で店を出して、儲からなければ半年で閉じる店と「俺はこれで一生やっていくのだ」という心意気の店とをやはり同類に語ることはできない。「鳥安」に独りで行くことはないが、とにかく落ち着く。そんな育ち方はしていないのだが味の素中心の味付けになぜかほっとする。マンガにでてきそうな笑わないおかみさんがステキだ。菊正宗を飲んで帰って寝た。
朝一番に役所。あんまり仲良くなりたくないし、顔を覚えられたくないがやむおえない…。 『小岩の家』の施主よりメールあり。据え置き型コンロからビルトインのコンロに変えられないかとのこと。問題ないと返事。
午後からバンタンキャリアスクールに出講。ほとんど未経験者ばかりのクラスだが、何人かは「9坪」の空間の可能性に気付きはじめてる。制約が大きければ大きいほどが他力的な発見は多い。「シンプルでモダンな空間」からいかに離れることができるか、うっかりしていると「箱」になってしまうところをいかに避けるかがポイントであろう。難波和彦さんらが希求している方向性とはまったく違う方向へ進んでいる。彼らのやってきたことを踏まえながら、かつ我々はそこからゆるやかに離れねばならない。また鈴木博之らが観念どまりでいることろを、我々は実際の建築に少しづつ、もしくは少々大仰に振る舞って落としこんでいかねばならない。
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| 2003年11月6日(木) | |
 | 昨晩は卒業生の金丸君が来所。バタール、ブリーチーズ、ハムを肴に23時頃までチリワインとボルドーを一本づつあけた。成城石井で買った安い輸入ものの黒オリーブはまずくてゴミ箱に捨てた。よっぽど小豆島のオリーブの方がおいしい。金丸君はバンタンを卒業後、また学校に通っているらしい。僕が「20代からせこせこ設計事務所で働いたってろくな建築家にならないよ」といったのがきいているみたいだ。何か発見があるたび、また迷いが深まった時にうちに遊びに来る。それでよい。「平和な世界なんて絶対おとずれないですよね」「うん、ないね」「帝国主義って何ですか」「う〜ん、ただ破滅するまで回転し続けることかな」なんて会話をして、最後に金丸君は「みてください」と図面ケースから美しいドローイングを取り出し僕にみせた。五弁の花びらを彷佛とさせる平面の中には静かな時間とむっとした花の匂いがたちこめていた。確実にそれは僕に伝わってきた。「今、この建築の敷地を探しているのです」と彼はいう。正しい、最も純粋な建築の姿がそこにはあった。
8時起床。午前中は役所へ行きしぼられる。久々に足が震えた。ある部分についての是正の指示だった。気が重いがなんとか解決し前へすすまねばならない。職人さん、工務店、施主みなに迷惑をかけることになってしまった。昼から是正のための図面作成、施主、工務店との調整…。
夕方東京ベスパから電話、直ったとのこと。すぐに桜丘町まで歩いてとりにいく。ポイントとウィンカーのリレーの交換で完璧だという。半信半疑でなく、期待を込めて走らせてみる。何年かぶりに味わうエンジンの快調さ。交差点でスロットルから手を放してもエンジンが止まらない、当たり前だ。やりがさきの交差点からいっきに坂を中目黒方向に下ってもエンジンが止まらない、当たり前だ。気分が良くなったのでどこまでも走りつづけたい、と10代の青春みたいなことを感じたが、もう38才なのでとっとと事務所に戻ることにした。
精神的に疲れた一日だった。熱燗でも飲むか…。 | |
| 2003年11月5日(水) | |
昨晩は恵比寿西口の関西お好み焼き屋「一平」でモダン焼きを食べ、熱燗を飲んだ。カウンターのお客さんたちの口から「黒川紀章は最近どうしてんのかねえ」「昔かせいだから今は何もしなくてもいいんじゃないの」「あの人の話しは地球規模だからねえ」といった会話が聴こえてきた。そう、昔、20年くらい前、建築家といえば黒川紀章という時代があった。若尾あやこを嫁にもらって意気揚々と昇りつめた感のあった頃。
小さなお店に入ると他のお客さんの話しがいやおうなく耳に入ってくるのでおもしろい。辻占よりもっとはっきりとはいってくる。このあいだ「一佳」では「おれが学会賞をとった時…」なんて話しをしている人がいた。「誰だ誰だ…」と思って顔をみたがイエローキャブの野田社長みたいな顔をした人で、誰だかわからなかった。帰り際にボトルに「ウカジ」とサインしていた。「ウカジって誰だ」と思ったがそのまま忘れてしまった。
東京にいるとわりとぶらぶらしている建築家をみることがある。難波さんはワタリウムの周辺を例の大きな帽子をかぶって自転車でふらふらしていた。山手線の中で相変わらずおしゃれな押野見さんを発見。一番びっくりしたのは、神宮の花火の日、雨が降っていて花火は中止だった。けど関係なく恵比寿から神宮前まで歩いてふらふらして、中華料理屋に入ると、北川原温がふらっと独りで入ってきた。お店の人が「お久しぶりですね」と。盆休みなのに独りで仕事しているという。なんとなく感動した光景だった。「建築ツウ」の大島です!と名乗り出ようかと思ったが、気が小さいのでうとましがられることを懸念しやめてしまった。
石山さんの日記の中で石山さんが鈴木さんの本を読んで感動していた。都市と「抒情性」がポイントだったようだ。石山さんの日記には内省的なところがあり、そこが難波さんの日記と違うところだ。
夜中に眠れなくて3時頃床から這い出て納得のいっていなかった木材の塗装実験をはじめた。なんとなくいけそうだと思ったのでまた床についた。東の空は白々としていた。
午後から『六角橋の家』の現場にいく。久しぶりに施主と現場にて打ち合わせ、最終的な塗装の色など確認。なごやかに歓談していると、電話が入り、『代官山 museum
of share spirit』の方で問題発生とのこと。横浜からすぐに代官山へ駆け付ける。そのことで明日役所へ出頭しなければならない。 |
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| 2003年11月4日(火) | |
午前中はこの日記のサンプルがメールでとどいたので、しこしこと試運転してみる。なんとかうまくいきそうだ。写真も入れられる。まめにスナップショットを入れた方が楽しい日記になりそうだ。石山氏や難波氏の日記との差異性を表出していかねば(誰にも頼まれていないが……)。(そういえば最近…は三つでなく六つがフツーであることを松永路に教えてもらった。)
午後から『代官山 museum of share spirit』の現場定例。外壁モルタル金コテ仕上げが終了。いよいよ現場に大谷石が搬入されはじめた。内部の階段も「きまった=納まった」。そろそろ床のマホガニー、枠材のタモ、などの塗装の調整をしなければならないので、現場に注意を促しておいた。片野氏と連絡をとり、今週土曜日に打ち合わせをすることにした。
帰り、ベスパ(スプリント125 推定1973年製)の具合が悪く、そのまま東京ベスパにかけこんだ。最近2回いじってもらったが、一向によくなるどころか前よりも悪い。「とにかく直してくれ」とお願いし預かってもらった。
古いバイクは人間の体みたいなもので、全体のバランスや季節や年令が微妙に関係しているので調整が難しいことはわかっている。しかし、10年以上ほとんど故障無しできているので、なんとか乗り続けたい。もう、こんなめんどくさいバイクはやめて、スターター付のバッテリー付きのイグニッション付きのバイク(つまりフツー)に乗り換えようかな……と思っているのだが手放せない。ぼくはいろんなところで「メンテナンスがいやなら家を建ててはいけない」と言ってしまっているので、家がない分自分の生活をできるだけ便利にしないように心掛けている。いや心掛けているというよりも「便利は格好わるい」と思っている。未だに電子レンジはないし、トースターも炊飯器もないが、しかし七輪や米炊き土鍋はある。テレビはどんどん小さくなって今は10型になってしまった。人のお家へいって大型テレビをみると本当に口をあんぐりして魅入ってしまう。しかし、自分の今の生活にはどう考えてもそれは入って来ない。
バイクをあずけてしまったのでそのまま渋谷まで歩く。ビックカメラによって、当日記用の小さいスナップショット用のカメラを探したが、何となくピンと来るものがなかった。つまり、この心理がカメラ付き携帯へと繋がるのだなと思った。あまり携帯電話が好きではないので、むしろカメラに電話がつけばいいのにと思ったが、あまりにもひねくれた意味のない考え方の自分に少々辟易する……。
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| 2003年11月3日(月) | |
今日は打ち合わせなどが入っていない。つまり休み。 天気はあまりよくないが、部屋の模様替え。本棚の位置を動かす。
体も動かそうと、原宿まで歩く。表参道は高級ブランドショップが増えるにつれて安っぽい街並へと変化している。それとは関係のない渋谷ファントムやオリエンタルバザーに立ち寄り、原宿餃子房にて餃子を食べる。上海に行きたいなぁ〜と思いつつ、また渋谷まで歩いて兆楽にて餃子を食べる。計一万117歩の散歩だった。
テレビでテストザネーションをやっていたので、真面目に視聴率アップに協力する。いくつか答えがわかりそうなのに脳の回転がついていかず悔しい思いをする。結果はIQ119であった。おそらく年令換算式なので、年のわりにはいいということだろう。建築家としてはどうなのだろうか……。 |
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| 2003年11月2日(日) | |
14:00より『幡ヶ谷の家』の施主夫妻が打合せに来所。これまで、ずっとお伺いしていたが、はじめて事務所にこられる。基本設計書の提出をした。屋上に出られるための階段を設けることが新たな追加事項。これから実施設計に入る。年内一杯にはできればまとめたい。18:00過ぎに打ち合わせ終了。
体調がすぐれず鼻水がでる。 アトレでかった寿司を食べながら、『小岩の家』上棟式でいただいた沢の鶴を飲む。相手は何とも思われてはないと思うけど、東京にいて神戸の酒をいただくとまことに嬉しい。地酒という言葉が嫌いだ。酒はメジャーに限る。もしくは、その土地でその土地の酒を飲む。京都に行って京都の酒を飲もうと思うと案外置いていなかった。他地方の地酒と呼ばれるものばかり。ぼくは伏見の酒が飲みたいのに。そういう地酒信仰、ブームがいやだ。
沢の鶴を飲みながらDVD で「青いパパイヤの香り」を観る。10年前のフランス-ベトナム合作映画だが、静かで心理描写が多くなかなかよかった。ベトナムのお金持ちの居城の中に多くの格子のデザインをみることができた。主に中国様式だが、それにとらわれず独自の変化をとげている。日本における格子もこうやって独自の変化をしていけば良いのだ。蔓殊院の欄間を思い出す。
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| 2003年11月1日(土) | |
 | 朝少し雨 大安
12:00より『小岩の家』の上棟式なので、10:30半頃現場に着く。バンタンキャリアスクールの学生数名見学に来る。希望者のみだが、間口3間という規模が9坪ハウスと同じなので参考になったことであろう。また、職人さん、現場監督、建て主、近所の人という様々な人々の営為によって建築現場は動いているのだということを肌で感じられたはずだ。
おみやげにおいしいお弁当をいただいたので家で食べる。その後ツタヤに行って DVDを借り「アメリ」を観た。古いフランス映画のいいところと、現代的な表現技法が混在しており、フランス映画はまだ死んでいないのだなと思った。
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